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きたぜーっ!!

ネモって・・・。どれだけ待たせてるんだよ!(個人的には待ってないけど。)

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自分は、合気に関して、あまりスピリチュアルな観点から見ること・語ることを遠慮していた。

それこそ、宗教のように、神だとか、魂だとか、霊だとか、気だとか言っていたら、それですべて説明が終わってしまう。

科学的とは言わないまでも、人間を相手に実験して、ある程度同じ結果が得られるのであれば、理論構成はできる。

おのずと原理の輪郭が見えてくる。

しかし、そこから結果として得られるものが、そういった一般的には理解不能なものに帰結していくこともある。

今まで書かなかったが、
自分の習う合気の技術の先生たちは、
みな、いわゆる不思議なことが現象として起こせる。
いや、この技術の身体になると、それができるようになってくる。

その1つが「手当て治療」である。

昔から「傷の手当て」という言葉などで言われるように、手を当てる行為、その言葉が生まれた背景には、実はそれなりの意味がある。

自分もこの技術をはじめて1年くらいで、少しずつそれができるようになり、
今では、家族内では、この「手当て」で凝りや痛みを当たり前に治療している。

はっきり言うと、なんとなく・・・ではなく、確実に効果があるので、

家族も納得して、それを受け入れている。

こういうことは、一般にはポジティブに受け止められる人でも「まあ、あるのかもしれない」程度の理解しかされておらず、そう表に出ていない情報であり、

「合気の技術の根幹」になるものの1つである。(だから余計に秘密にされる。)

驚くべきことは、これができるようになってはじめて、

「手当て」ってそういう意味なんだ!!

ということに気が付くことだ。

言葉には、実は先人達の発見、経験してきた、現代人が想定できない、人間の真実が込められている。

温故知新とはよく言ったものだと思う。

これから、こういったことも少しずつ書いていこうと思う。

信じるか信じないかは知ーらないっ。

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昔、生物の授業で「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の反復説?というものを聞いたことがある。

ある動物の発生の過程は、その動物の進化の過程を繰り返す形で行われる、というのがこの説の内容で、魚類やら両生類やら?から進化して今の人間に至る過程を胎児にうちに形態変化しているということらしい。

よく言われるのが、人間が胎児の頃に手に水かきが一時期できるけど、消えるというものがある。

で、前から気になっていたんだけど、

その過程の途中で、一時期、「宇宙人」みたいな時期があった気がする。

いわゆる目が大きくて、顔の半分から3分の1くらいを占めているような、テレビでたまにやる宇宙人の目撃情報とよく似た顔の状態というか。

仮に反復説が正しいとしたら、

もしかして、

人類は宇宙人から進化している・・・のか?

なーんて。

よく、テレビで宇宙人にさらわれて、無理やり交配させられて・・・なんて
話を子供の頃見たことがあったけど、マジなんじゃねーの!?と思えてしまう。

少なくとも、手に水かきがある状態が進化の過程であったなら、

それこそ、「河童」の時期があったのかもしれない。

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もし、骨が発掘されなかったら・・・

誰も古代に恐竜なんて馬鹿でかい生物がいたということを信じないだろう。

ただでさえ、現代科学では恐竜たちが現在の地球の重力下で歩けたという計算結果が得られないと聞いたことがあるくらいだから。

昔はもしかして地球の重力ってもっと小さかったのかな?

地球がもっと小さかったとか、楕円で遠心力の偏りが大きかったとか、いろいろ考えられるけど。

もっと常識では考えられない理由もあったのかもしれない。。。

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とあるブログのコメントにこう書かれていた。 

「日本人は本当に平和ボケしています。騙されても騙されても他人毎だと思っているのですね。」


海外に住む日本人から寄せられた、そのコメントに正直、ふがいなさ、情けなさを覚えた。

そのとおり、ほとんどの日本人は自分のメガネで見えたものが真実だと思い込んでいる。

「俺的客観性」という、狭量な主観を持って物事を判断している。

(たとえば、「俺」が本やネットやこれまでの人生経験等で情報を集めて、情報の整合性からしても正しいと判断できるから、これは「客観性」がある情報で、これが俺の主張であり、世界の真実である・・・といった感じ思い込みのことだ。)

それはとりも直さず、お眼鏡に適う情報が来れば、真実だと思ってしまうことを意味している。

情報は与えられるもの、集めればよいもので、それを目的に従って加工、変換処理すれば良くて・・・結果、自ら判断するのはせいぜい正しいか間違っているかレベルでしかない。
そんな風潮がスマート、正義としてまかり通っている気がする。
とても法治国家らしく思えるが、ある意味人間性としては末期的ではないだろうか。

想像力を掻き立てられるきっかけの情報無くして、自らの自発的な想像力を無くしているのではないだろうか。

相対性の中で自分を問い続けるという視点はなく、近くの岸にすぐ上がって安心してしまっている。

そして、自らもかつてそんなメガネを持っていたことを思うにつけ、
日本の教育のある面は間違っていたのではないかと思うようになった。

いや、そうされていたのか・・・。

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