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日頃思うこと、気がついたことを綴る場所です。
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えーと、ストライクとイージスが戦うときに、
以前は雷が鳴って、静止画ばっかだったので、HD版に期待して放送を見てみたら、
見事に動画になっていた。
殺伐とした斬り合いになっていた。
ちょっと、見てよかった感があった。

エンディングが石井 竜也の曲から変わっていたのはちょっと残念。
あの暗い曲良かったんだけどな~。

それだけー。

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自分は見ていて爽快感があるスポーツが好きだ。
淡々と粛々と時間をかけて勝敗を決めるスポーツは見ていて面白くない。
(パズルとか将棋とかは別だけど)
だからキャッチングの時しかファインプレーのできない野球は好きではない。
まだ相撲やボクシングの方が見ていて面白い。
特に個人技の発揮のしやすいものが面白い。
サッカーなんかは見ていて面白いと思うし、個人技とか爽快感という点でボードが好きなのも自分で自分の興味に納得がいく。
今のところ、一番のお気に入りはボードクロスかな。

さて、
yahooのトピックスにスラムボールなる新スポーツがアメリカで流行っているらしいという話題が載っていたので、早速youtubeでチェックしてみたら、これがスゴイ過激なスポーツなのだ。

詳しいルールはよくわからないが、基本はバスケットボールとバスケットのコート?を使ってやるみたいなんだけど、ゴールを囲むようにいくつものトランポリンが置かれている・・・。
で、そのゴール付近まではアメフトのようなボールの取り合いをしているではないか。
ボールの奪い合いは地味にぶつかり合っているのだが、ゴール前はすごい滞空時間でみんなして浮いているのだ。
もちろん、ゴールの瞬間はアクロバティックなパフォーマンスばかり。
見ていて、爽快感がある。
720回ってのダンクなんてザラにあるし、フリップしてダンクなんて奇想天外な技もできるようだ。

これは、人気が出るのもうなずける。
ただし、怪我はハンパなさそう。。。

トランポリン好きにはたまらないスポーツ出現だ!!

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合気の為の個人的鍛錬を少しずつ、やっている。
ボードに役立てることも視野に含めつつ。

ボードでも同じことだが、
事を成すには、体を作ることと同時に頭を作ることも重要だ。
頭は学ぶことと脳内回路を作ることの両方の意味で。

やっていくと、少しずつだが、体についていろいろ考えることが出てくる。
それと同時に「あ、コレってこういうことだったのか!?」と、
よみがえる記憶と共に気がつくことがある。

小学校に入る前の自分は、体を動かすことが割りと得意だった。
今じゃ考えられないほど、機敏で瞬発力もあって、よく動けた。
本当に自由に体が動いたのだ。記憶の中で。
少年野球を始めて、小学校の体育の教育もあってか、
5、6年の頃にはだいぶ筋力もついてきたと思う。
しかしそれと引き換えに体を動かすことに億劫になってきたのだ。
そして、(略)そのまま大人に至ったわけだが・・・

今、思うとある意味、子供の頃のあの感覚は、完成された調和のとれた状態であったのではないかということだ。
いやもちろん、筋力のついた成体の方が調和がとれているに決まっているのだけれども・・・でも、と感じる。

最近、甥っ子と遊ぶ機会が多い。
生まれて半年もすれば、大人に反抗し、自分の欲望を叶えようと、ちゃんと体で抵抗してくるのだ。
大した筋力もないはずなのだが、時に大人でも驚く程・・・どうやって・・・?と感じる。
また、その子も今は2歳になり歩き回っている。
一緒に遊ぶと不思議なもので、いわゆる「元気をもらう」ことがある。
大人同士ではなかなかないことだと気がつく。
こういうことが「無邪気」だと考えると、不思議が不思議でなくなる気がする。

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一概には言えないことだが、膨大な情報の中で、共通する重要な凡例の一端を垣間見ているような気がするので、書き記す。

ボードでの7への挑戦と、合気の習得には、次元の違いはあれど、共通するものがあるのではないかと思う。
というのは、合気が「これまでにない、発想の転換が必要」と言われているように、ボードにおいても自分にとって、それがあったからである。

自分にとって原理的に絶対不可能だと思えたことが、他人に出来ている時、自分を出来なくしていたのは、自分で「できない」と思い込んでいたことだと気がつく。

それが、「できるかも」と本当の可能性を感じた時、今まで見えていたものは全く変わってしまう。

いつも聞きなれた言葉の本当の意味に気がつくようになる。
そう、言葉の意味は、自分の進捗によって変わる。
それが変わった時は、ある意味、固定観念から開放された、発想の転換があった時と言えるだろう。

ただし、そこに辿り着くまでは、転換となる事象の前提がどのレベルかがわからないといけない。

膨大な選択肢から、確信を見つけ、それを徹底的に鍛えていくしかない。
だから、選択に失敗し、回り道をして、絶対的に時間がかかるものだ。
そして、運の助けを得てやっと前提に辿り着ける。
(天才は、この選択肢が必要のない人、言い換えれば、転換が必要のない人を言うのではないかと思う。)

例えば、ボードの映像を見て、ボードの経験のないやつが「俺も7回したい」と思ったとする。
しかし、彼には、前提となるものが、ないし、想像もつかない。
もしかしたら、板さえ手に入れれば回せると思っているのかもしれない。
板を手にして、1回せればできるのか、3回せばできるのか・・・
しかし、実際は5回せることが前提となる。ここがスタートで、ここから発想の転換が必要となる。

ここまで来て、自分の原理の限界を知らないと、発想の転換は訪れない。
先に進むには自分の原理自体が可能を不可能にしていたことに気がつかないといけない。

さらにやっかいなのは、この手の話は人に非常に伝えにくい性質のことであるということ。
だから、誰も7を回せる方法を万人に説明できないし、しようとしない。
しようとしても目に見えることでしか結局説明できないのだ。
相手が理解できないから。
だからおそらく、合気を成立させる方法を完全に説明は出来ないし、しようとしない。

掴みたい人には、非常にじれったい話であるが、こういうことなのだ。おそらく合気も。
一生をかけて研究するに足る興味対象を見つけられたことがとてもウレシイ。

ただしここから導き出されることもある。
それは、5から運に助けられ偶然成功して、結果発想の転換に結びついたように、合気も成功体に助けられないと、おそらく発想の転換はできないのだろう。

不可能を可能にするのは、それぞれの次元で、道は険しいようだ。。。

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せっかく作ったシアタールームで、今更ながら逆シャアを見てて、
なんとなくアムロとシャアのやり取りから、2人とも死んだのかな~と思い、Vガンダムでカテジナさんが記憶(あれ?視覚を失っただっけ?)を失う瞬間がちゃんと映像の中にコマ送りしたら映っていたことを思い出して、そのシーンあたりをコマ送りしていたら、虹色の光の帯が伸びアクシズが地球から離れた後、その帯の向こうでアクシズを離れ、地球に向かうようなエンジンの閃光がちゃんと入っているではないですか!?
やっぱアレ、ガンダムですよね?
ほんの一瞬だけだから、気がつかない人も多かったのかもしれないですが。。。
おそらくあの帯の向こうにいたのは、ガンダム1機だけだろうし。
いや~しっかり作ってあるなあ、と感心しましたよ。希望を持たせたってか!?
監督はアムロを死なせたかったというような発言もあった?様ですが。。。

その後の話として(アムロは登場しません?が)小説ユニコーンガンダムが連載中ですが、4巻のバナージとフル・フロンタルの会話を読んで、やっぱりフル・フロンタルはシャアなんじゃないかと思いました。
周りにのせられて、シャアという人物を演じている、記憶を失ったシャア本人・・・という設定は・・・ないですかね?

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