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力は3点以上から出力されると、空間に固定される。
3点のうち1点が欠けてしまうと、不安定になり、バランスを崩してしまう。
物体だけでなく、人間も一緒。
ただし、物体は自ら動くことがなく、自ら重心を動かすこともしないため、安定には物理的接触で必ず3点以上を必要とするが、人間はこれがどうも少し違う様である。
人間は2本の足で立っているので、2点しか接触していない。
(これを2点と見るか否かについては、物理音痴の私にはわかりません)
しかし空間固定にはもう1点が必要であり、これを別の形で行っているのではないかというのが今回の主題。
以下テキトーな半端検証?(物理音痴だからわかりませーん)
足の裏は点ではなく広くて面だから、そこに無数の点があるから2本足で安定・・・というのはだったら1本足でなぜ不安定かの説明にならないし、面が広ければ棒でも一応自立はするから、実は無数の点で安定と思えるが、3本足の椅子を押しても倒れないのとは安定性において本質的に違うと思える。
基底面の何割かが地面に面的に接触していて、1Gであれば、安定というのは物理的に計算できるかもしれないが、人間は倒れるのを回避できるから、それは説明になっていない。
立っている棒は押したら倒れてしまうが、押されても人間は倒れることを回避できる。
人間が倒れない原因は「重心操作」であることは誰でも勘でわかるだろうが、
この見えない3点目(もはや点とは言えないが)を形を変えて移動させて絶えず安定化を図っているからこそ、人間は押されても倒れないことが可能なのでは。
つまり個々人が感じる意識上の「重心操作」というもの自体の別側面が、無意識上の引きの力のコントロールであり、身体を空間に固定する3点目ではないかということだ。
この3点目とは空間重心ではないか。
例えば、空中で両腕で壁か何かで身体を支えれば2点が確保され、鉛直に重心を落とせば3点目になる。
重力があるから、落ち引かれる方向が決まっているから、触れずとも質量を用いて3点目を作ることで3次元的に姿勢維持ができる。
これはブランコに乗っていても一緒でしょ?(引力や遠心力やら慣性やらが3点目になるしね。引きの力さえ発生すれば鉛直下ではなく、上方にも発生する。)
人間は2本足だけで立っているのではなく、見えない3点目を作って立っているのではないだろうか。それが歩き等の動作の中では目的位置であるし、立ち止まっていれば、股下の空間等にある。
人間が見えない情報・・・これを仮に霊と呼べば、霊を扱うことに長けた存在(霊長類)だからこそ二本足で立っているのではないかとも思える。
この鉛直の重心線を首を前に曲げることで、発生する抵抗値により意識が強く発達し、他の動物とは違って文明&社会性を持つ要因となり、かつ、真下から前面目的方向に3点目が発生するから2本足で立てるのでは・・・と邪推する。
脳の管理する無意識はいろんな情報に観念的イメージを重ねることで、情報管理しているが、この見えない3点目は言葉にすればおそらく、身体にとっては「安定するための力」とか「重心に発生させる力の方向」とか「引かれ定着する方向性を持つ力」として管理されているのではないか。
他2点は地球との角度で生まれるトルク(前後左右への動き)を防ぐためか。
いずれにせよ、手や足で出力する1点目、2点目と全く同じ情報処理として、引力により固定される3点目を無意識に利用している。(尻尾が退化したのは・・・。)
動きの中で安定するのは、目的位置に3点目が発生するからではないだろうか。
ふと自転車等が走り出すと安定するところが思い出される。
(一輪車は3点のうち2点が見えない点になるのか・・・?難しそうだなぁ)
その見えない3点目を透かすと、気が付かないうちに既に不安定になる。
目的点がなくなるだけで、スカったように人間は不安定になる。
あるはずの階段の段が無かったり、ドアの取っ手が外れたら、スカるでしょう。
でも3点目は物理的接触をしていない上に、引きの力は身体の感覚としてはあまりに慣れ過ぎているために、自身が出力している力の存在に気が付かないから、不安定になる理由すらわからない。
これはかなり実質物理的な(3点目の)管理を脳が無意識にやっているはずである割に、認識上では「目的としようとしていたことの当てが外れるとそうなりますよ」程度の観念上の問題というか、力学とは遠いところでしか説明されないのが普通だ。
それは無理もなく、無意識が意識に上らない程瞬時に3点目の調整を行ってしまっているからであろう。
ここらへんを〇藤〇洋氏は著書「〇意の解明」でこんな風に書いている。(趣旨の抜粋)
「体重を支えているものは足であり、大地である。別にもう一つの支点が人体を支えていることが分かる。そのもう一つの支点とは、「狙いの支点」であり「体から放たれるエネルギー」であり、更に言葉をかえて表現すれば、「目標に伸ばされた気の支点」である。」
この相手の3点目を外から強制的に形状及び位置変更または消失させてしまうような方法があったら、それこそ、相手のバランスを崩し、必ず倒してしまうという技術になり得るのではないだろうか。
この依って立つ3点目の在り方こそが、意識の技術の秘密ではないかと考えている。
前に書いた「浮き」の原理とも怖いくらい一致するナァ。
ここらへんを〇村〇雄氏は著書「〇気修得への道 〇川〇義先生に就いた二十年」でこう表現している。(趣旨の抜粋)
「鍛えあげた大男を、弱々しく小柄な男が倒そうとして、倒れないのを見た人々は、あたりまえだと思う。しかし考えなおせばそれは非常に不思議で神秘的なことで、押されたとき、肉体という目に見える物質だけであれば、二つの足の裏で地面に立っていて、重心も上の方にある、不安定きわまりないものである。2人の男が同じ重心配分をもつ人形であれば、体当たりされただけで簡単に倒れてしまう。倒れないでいることは不可能だ。
〇気とは何か?この非物質的防御システムのスイッチを切ってしまう技術だと言える。その電源を一瞬切ってしまう技術。
〇気によって実際人体が単なる物質のような存在になってしまうことから、人体がたしかにある非物質的システムによって支えられているのだと確認できる。」
もうちょっと考えてみなければならない課題は多いけれども・・・
触れただけでありえないくらい空中を吹っ飛んでしまうというあたりにも多少思い当たる節が!?
少なくともこの無自覚に出てしまっている3点目の力を自ら発見し、状態を把握し、この技術の目的に合わせたコントロールをする方法を見つけないと先には進めないということだ。
とりあえず、これを前回の寝言の時間軸のあり方を含めて考えてみると・・・
頭がパンクした。
ZZZ・・・。
例えば・・・
取っ手の部分を持たずに引き戸を開けるときに無意識は戸の重心をすでに捉えてそこに力を効果的に作用させている。
しかしそれを戸を動かしながら、明確に意識することははっきり言って難しいし、それをやると、すでに、意識も身体の状態も「普通に開けている状態」から変わってしまう。
無意識が捕捉する重心の情報は非常にぼやっとしたものだ。
しかも無意識は重心が「移動」している時にしか、捕捉できない性質を持つ。
逆に意識は明確さを得ようとするため、重心が時間的に止まったある時点の位置の認識しかできない。
意識が捉えようとすると、ある時点の重心の位置は補足できても、それは既に過去の情報で、動きつつの情報の全てを明確に捉えることはできない。
つまり、重心の情報を時間軸を含めた4次元で捉うには、ぼやっとしたまま扱わなければならない。しかしそのぼやっとしているが、なんとなくわかるような感覚が、人間がそれを捉えられるそもそも脳の情報構造の限界で、しかし、それはただの感じ方の問題であり、そういうものだと理解すれば、それ以上、明確さを追求することなく、その情報レベルのまま扱うことができる。
「わからないものをわからないまま扱う」
その扱いの精度を上げられるように無意識を鍛えることさえできればOK。
この連続した時間を捉えている状態の人間に対して、明確さを求めるあまり、ある時点、ある次元しか見ていない人間は力を効かすことができなくなる。
まとめると、
仮想の合成重心収束点の移動軌跡をトレースしたものが物体の4次元(時間軸)の捉え方で、それを捉えるには1つ1つの次元に注視せず、ぼやっとした捉え方が必要になる。
しかしその時、現在の時間で重心の存在位置と動きの全体を捉えることができる。
別の応用では・・・
上のとおり、「わかる」・・・言い換えれば「理解したという実感」ということに明確さを求めてしまうと、勉強でもそうだが、容量が簡単にオーバーしてしまう。
意識が許容できるその「わかっている」実感の記憶領域は極めて少ないから。
だから、1つ覚えると1つ忘れる気がしてしまう。
意識上の実感ではそのとおりで「覚えている」という実感を意識したまま記憶できることは少ないから、特に長期記憶のような膨大な情報をやりくりするような時にその方法は使えない。
しかし、一旦無意識にパスを投げれば、明確な実感はなくとも、膨大な記憶容量があるため、意識せずとも「記憶できている」ことの確認作業と、「出力能力加減とそのスピード」の確認さえしておけば、記憶したことを出力するという作業においては、目的が果たせる。
そこに、覚えているとか、覚えたという実感は不要。
記憶していることの明確さを捨てることができた人間だけが、膨大な記憶量(入出力能力)を手に入れることができるという矛盾がある。
残念ながら手に入れた実感は発生しない。
結果が先に得られ、実感を求める余り、取り残された心が「残心」となる。
興味のない、難しいことほど、やりたくないことほど、「覚えなければならない」必要性からから「覚えた」という実感が欲しくなる。
子供の頃から、興味のあること、何の役にも立たないくだらない知識ほど、簡単にインプットされて、しかも大人になった今でもすぐに出力できることって誰でも経験があるはず。
つまりそれは記憶したことの「明確さ」や「実感」を求めていないから、意識的に記憶を留めているわけではなく、無意識にインプットされている。
無意識に情報を入れるには、感覚器からの多角的な情報が効率が良いから、目で見て、ひたすら音読等が効果が大きいが、その意味や理由や効果の実感がわからないから、やらない人が多いだろう。自分もそうだった。
これは、学生時代に気が付きたかったことだ。
こういった人間構造の原理に気が付けた人や、勘(無意識)で使いこなした人は才能があるし、頭が良くてうらやましいナァ・・・
zzz・・・。
走っていて、同じスピードでも瞬間燃費の良い時と悪い時があり、
それが燃費の停滞に大きく影響していることには薄々気が付いていたが、
その理由(THSのシステム構造)がわからなかった。
もちろん、CVTだからエンジン回転数とスピードが一致しないという点もあるが、
それだけじゃないハイブリッド特有のバッテリーとの関係性が絡んでいた。
いろんなところから情報をもらって、
少しずつ意味がわかってきて、
運転にそれが反映されるようになってきた。
ようやく満タン法の実燃費が19.6km/Lになった。
ガスは若干入れ過ぎているので、ほぼ20km/Lに到達していると思われる。
今回ガスを満タンにした時にタイヤの空気圧を調整しているので、
さらに燃費は伸びると予想される。
燃費を伸ばす運転は簡単ではないが、原理がわかってくれば
運転方法自体が難しいという程でもなく、
面白くなってきた。
稼ぎやすいルートをぐるぐる回れば、20km/Lは優に越える燃費が可能と思われるが、
当面の研究課題の解決(低速域のバランス)と、通勤ルートでの20km/L越えを目指して、もう少しいろいろやってみようと思う。
ここまで燃費が伸びてきて、1つ言いたかったことが書けると確信した。
それは、この車に乗っていないのに、
「このクラスのハイブリッドの燃費は実際はガソリン車とほとんど変わらない」と、
まだ納車前に、知人に言われて、がっかりした反面、
プリウスの低燃費の達人の人達のにわかに信じがたい燃費記録からすると、
「それでも、ガソリン車と変わらないということはないだろう。」
「このクラスで初めてのハイブリッド(他社でもやっていない)な上、
まだ販売もされていないのに、なぜ、そう断言できるのか?」と、
言いたかった。
それが少しずつ証明できてきた気がする。
人間、自己体験や自己検証もしていないのに、
外部からの情報だけで、自己推測をして、自己断定をして、
それを他人に伝えては恥を書きますよ・・・。ホント。