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例えば・・・
取っ手の部分を持たずに引き戸を開けるときに無意識は戸の重心をすでに捉えてそこに力を効果的に作用させている。
しかしそれを戸を動かしながら、明確に意識することははっきり言って難しいし、それをやると、すでに、意識も身体の状態も「普通に開けている状態」から変わってしまう。
無意識が捕捉する重心の情報は非常にぼやっとしたものだ。
しかも無意識は重心が「移動」している時にしか、捕捉できない性質を持つ。
逆に意識は明確さを得ようとするため、重心が時間的に止まったある時点の位置の認識しかできない。
意識が捉えようとすると、ある時点の重心の位置は補足できても、それは既に過去の情報で、動きつつの情報の全てを明確に捉えることはできない。
つまり、重心の情報を時間軸を含めた4次元で捉うには、ぼやっとしたまま扱わなければならない。しかしそのぼやっとしているが、なんとなくわかるような感覚が、人間がそれを捉えられるそもそも脳の情報構造の限界で、しかし、それはただの感じ方の問題であり、そういうものだと理解すれば、それ以上、明確さを追求することなく、その情報レベルのまま扱うことができる。
「わからないものをわからないまま扱う」
その扱いの精度を上げられるように無意識を鍛えることさえできればOK。
この連続した時間を捉えている状態の人間に対して、明確さを求めるあまり、ある時点、ある次元しか見ていない人間は力を効かすことができなくなる。
まとめると、
仮想の合成重心収束点の移動軌跡をトレースしたものが物体の4次元(時間軸)の捉え方で、それを捉えるには1つ1つの次元に注視せず、ぼやっとした捉え方が必要になる。
しかしその時、現在の時間で重心の存在位置と動きの全体を捉えることができる。
別の応用では・・・
上のとおり、「わかる」・・・言い換えれば「理解したという実感」ということに明確さを求めてしまうと、勉強でもそうだが、容量が簡単にオーバーしてしまう。
意識が許容できるその「わかっている」実感の記憶領域は極めて少ないから。
だから、1つ覚えると1つ忘れる気がしてしまう。
意識上の実感ではそのとおりで「覚えている」という実感を意識したまま記憶できることは少ないから、特に長期記憶のような膨大な情報をやりくりするような時にその方法は使えない。
しかし、一旦無意識にパスを投げれば、明確な実感はなくとも、膨大な記憶容量があるため、意識せずとも「記憶できている」ことの確認作業と、「出力能力加減とそのスピード」の確認さえしておけば、記憶したことを出力するという作業においては、目的が果たせる。
そこに、覚えているとか、覚えたという実感は不要。
記憶していることの明確さを捨てることができた人間だけが、膨大な記憶量(入出力能力)を手に入れることができるという矛盾がある。
残念ながら手に入れた実感は発生しない。
結果が先に得られ、実感を求める余り、取り残された心が「残心」となる。
興味のない、難しいことほど、やりたくないことほど、「覚えなければならない」必要性からから「覚えた」という実感が欲しくなる。
子供の頃から、興味のあること、何の役にも立たないくだらない知識ほど、簡単にインプットされて、しかも大人になった今でもすぐに出力できることって誰でも経験があるはず。
つまりそれは記憶したことの「明確さ」や「実感」を求めていないから、意識的に記憶を留めているわけではなく、無意識にインプットされている。
無意識に情報を入れるには、感覚器からの多角的な情報が効率が良いから、目で見て、ひたすら音読等が効果が大きいが、その意味や理由や効果の実感がわからないから、やらない人が多いだろう。自分もそうだった。
これは、学生時代に気が付きたかったことだ。
こういった人間構造の原理に気が付けた人や、勘(無意識)で使いこなした人は才能があるし、頭が良くてうらやましいナァ・・・
zzz・・・。