霊というものは、「ありもするし、ないものでもある」であり、霊はそういうものだと捉えて、解釈が揺らぎ続けるものであると感じている。まるで般若心経の「空」の様だが。
例えば、10人の中に1人だけ空気の読めないやつがいたとする。そいつは、ある意味他のやつには社会的に意味合いのある空気という情報存在を感じることができない人間ということになる。
10人のうち9人が物理的な霊が見えて共通認識していても、盲人がいて見えなければ、共通認識は成立せず存在はあいまいなものになる。
物体の存在というもの自体、密度の濃い薄いによって、認識が左右されるものであり、絶対的な存在認識をすることはできない。
人間は基本、五感または第六感でもよいが、認識できるものを「存在」と認定している。
例えば人体から発する赤外線を物体のごとく見て捉えられる生物が人間を見たら人間の身体の範囲というのは人間同士が認識するよりも大きい範囲に及んでいるはずで、そういう世界観も見えてしまえばあり得るということになる。
だから、個々人の脳内に映れば存在すると言えるし、それは現実にはないかもしれないが、証明する方法はなく、万物は「存在するがしない」のが解釈であると思う。
所詮、人間が捉えている自己の内部も外部も、情報から作り出した脳の想像図に過ぎない。
ただし、個別の認識や共通認識に意味がないわけでなく、それは当然、有効に利用できる。
社会のルールや、言語、身体と心が別モノだという認識が通用するから、こういった説明ができる。
〇気の一部はそういう認識によって成立もするが、それは共通認識できる者同士の間での感応である。
誰にでも通用するのは、そういった精神〇気ではなく、物理〇気の方である。身体の物理は生体を維持するために管理せねばならず、そこには自己認識が生まれ出ずる。そこに生物を相手とした〇気が掛かり得る正に手掛かりがある。そして物理〇気がかかれば自然と精神〇気に及ぶ。
[0回]
PR