その1。思うこと。
最近思う。自分は自分をどこまで知れるんだろうか・・・と。
外を知ることに比べれば意味合いとしては大したことじゃない。
しかし、とても困難である。
潜在意識を知る手立てを得ても、なお困難を極めるこの作業に終わりがあるのだろうか。
前に進みながら、後ろへ戻っている気分だ。
〇気に関することは、そのほとんどが知覚情報として知らないが、身体や無意識は知っていることなのだ。
特に3歳以前のそれは膨大であり、そして極めて重要である。
その2。見えるもの。
意識は重心を招き、重心は意識の位置となっており、そしてそれは他人から無意識に推定できてしまう。
そう、人は他人の意識の位置が読めるのだ。
これはある一定以上、自分の力を抜くことができるようになった人間は皆気が付くことである。
そしてその意識同士の応対が世の中の表の世界の正しいことになっており、意識には意識をもって対応するが故、ぶつかり合いが生まれてしまうことにも気が付く。
そのぶつかり合いが実感として楽しい、社会的に正しいものは真っ当と認められて良いこととなっているが、楽しくない、社会的に間違っているものは「悪」とされている。
客観的に視れば、ただのそういう事実でしかないが、それに人間はアイデンティティーや感情を載せている。
その3。見えないもの。
ある人が無意識でやっていることは他人は真似(理解)ができないようになっている。
それは技術的にも真似できないし、興味が湧かないようにできているのだ。
もしほぼ完全に真似ができたとしても、その瞬間は自身やっていることを意識できないようになっている。
つまりできたとしても全く「旨味」を感じないようにできているのだ。
だから他人に説明はできないし、説明する気にならない。
無意識にやっていることだから、そもそも価値など感じないのだ。
意識的にやることはとても「美味しくて」仕方ないのに。。。
[0回]
PR