さてこれまでは、右脳と左脳の特徴より主に脳の意識の仕組みに関する〇気について触れてきたが、最後にちょっと具体的な身体面の〇気についてまとめてみたい。
なおこれまでと同じように前提となる必要な知識については読者自身で補完して下さい。
というか、それがないとおそらく理解できない点が多いと思われる。
「何を言っているのか!?」となっても置いていきますので、よろしくね。
身体面に関する〇気は「浮き」のところでも触れているが、今回は実用的な〇明な力に関する、力のあり方について。
これがわかると、なぜ〇気では「自分の力を抜く」ことがうるさく言われているのかがわかると思う。
そして、習っていても簡単に言葉にはしてもらえない重大なコツがわかってしまうかも・・・しれない。
人は圧力の大小を感じて、それが均一になる位置が、対象物のどの部分の振れ(動き)が止まった時にそうなるかで、自分に掛かる外の力の重心位置を特定している。
手の平の上で棒を立てるバランス遊びをやってみるとわかるが、視覚が自然と振れを止めるべき推定重心を捉えている。
人間が相手であれば相手の力を推し量るにあたり、加えられた圧力変化から相手の推定重心を捉えて、そこを力の出のポイントとして自分の質量の力を当てて、抵抗等の対処をしている。
これが無意識に行われている。
(体内で重心を特定の位置に作ろうと意識することで、1G以上の負荷がかかり筋肉が断裂してしまう。これが筋肉痛となる。)
だから最初から均一(1G順応)であったり、重心が見えるところから外されている相手から力を掛けられてもそれを感知できない。
なぜ〇顔の手と言われるのかはこの点を骨の構造面から深く考慮すれば分かることで、力をまとめることの難しさが分かると、なぜ故S川総範が座取りを基本にしたかの意味も分かってくるはずである。
そして、意味がわかって身体の使い方を変えると、不思議な程、途端に力の質が変わってしまい、ぶつからなくなる。
それまでなんとなくやっていた、身体の力を抜いた方が上手くできるとか、意識をこうやって操作すると上手くいくといった法則があるのかないのか明確でないような・・・そういったなんとなくの感じではなく、はっきりと変わってしまう。
相手の力はこちらに届かなくなって、相手の力を使えなくしてしまうことができる。
ともかく重要な点は意識で「見えないところに外した重心」を直接操作できるわけではないから、特に腕や肩に関しては意識は使ってはならないということ。
もしも意識を一瞬でも通常通りの見えるところ・・・たとえば筋肉等に焦点を持ってきてしまえば、途端に通常の力になって相手とぶつかってしまう。
コツとしては、(意味がわかるならば)物理法則に結果を任せて、それを一切意識しないことだ。
また力を外せないところは、一体どこに重心を置くのが良いかを研究して、それに合わせた身体を作っていかなければならない。
(そして、仮に「外す」ということについて追求するのであれば、「どこから外すのかという本質」を探っていかねばならない)
さて、ではこの力をどうすればまとまられるのか、手首に集められるのかはご自身でお考えください。
これを発展させると、相手のそれを利用したり、自分のそれを増幅させたりすることができる可能性が出てくる。
そして棒や剣を使った場合に、どうすれば道具を介しても同じことができるのかがわかるはずである。
〇明な力のネーミングについて
〇村氏の著書には「澄んだ〇明な感じがする力」と書かれていたから、そういう意味で「〇明」だと思われている節があるが、それは故〇川総範が名付けたその力を受けてから「確かに〇明な感じがする」と主観的に感じ取ったもので、ある意味勝手な解釈であり、故〇川総範が自分で名付けたことを前提とすると、それを受けた相手の主観の感想から名付けたとはとても思えない。
つまり、名付けた故〇川総範の主観で「〇明」だと感じ得る何がしかの特徴があるから、「〇明な力」であって、その力を受けた側が感じる「澄んだ〇明な感じがする力だから」ではないと推測する。
その意味では少なくとも「〇明な力」には2重の意味(解釈)がある。
当然、私は後者の意味で「〇明」であると確信しているが、「〇明な力」は故〇川総範の検閲を受けて、〇村氏が著したものであり、そこにカモフラージュとして2重の意味を持たせた可能性はある・・・と邪推する。
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