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日頃思うこと、気がついたことを綴る場所です。
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今も剣道には「合気」という言葉が残っていると思われるが、それは避けるべき状態として伝えられている。
しかし明治時代に全国をわたり歩いた武田惣角はこの合気を逆手にとり進歩させた、全く新しい発想の技術を用いた「大東流合気柔術」として教授していった。
そこから、合気道を始めとする様々な武道が誕生していく。

現在の合気道や柔道には、古くからの一部の高段者しか「合気」は使えず殆どが失伝してしまっていると思われる。
その上、ただのヤラセだろうという見方が一般では通説になっている。
(相撲やプロレスも同じ)

しかし「合気」は確かに存在し、誰にでも可能な技術であり、それが最も簡単にわかるのが、「合気上げ」。

木村達雄著書「透明な力」にある、佐川幸義が17歳の時に掴んだとされる「初歩の合気」の理屈がだいぶ理解できてきた。
やっと・・・3年越しでようやく理解できてきた。

この技術は言ってみれば、「おじいちゃんの技術」なのだ。
そういう年齢でも扱える「特殊な力」を先取りして使えるようにするようなイメージ。
だからボードで応用すると、何歳でもできる気がする。
そして、その技術が体現するまでの過程で、自分の思考や情念のクセを変えていく必要があるため、いわゆる精神的にも「おじいちゃんの心」を先取りすることになっていく。
ただ「おじいちゃん」なら誰でもできるわけでなく、その理屈に気がつき、一定の条件を満たさないと体現できないというえらく難しい「達人、名人の技術」なのだ。

これは目立たないが、非常に実用的な技術で、いくらでも応用はあるとおもうんだけど、
・金魚すくいの名人
・ハエ取り名人
・襲われたり喧嘩になった時(護身)の対処(動物:クマ等も可能?)
・ボーリング
・ゴルフ
・スノーボード(スキー)
・対人関係(特にクレーム処理等)
等など、考え出すときりが無い。。。
面白い技術ですわ♪
人生楽しいな~。

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今日書くことは、まあ選挙の影響だけでなく、いい機会なのでいままで思うところを軽くまとめてみた。
仕事柄こういうことは書いてはいけない立場かもしれないが、それだから感じることも多いため、敢えて書き残す。

今は法に定められていることは行使する権利があるし、法にないことも権利を主張できるものとして、好きに主張してしまっている風潮がある。言論の自由とは次元の違う話。基本的人権とも違う話。
いわゆる権利意識の高まりというものだ。

多くの人は・・・権利を行使する際、
物事に裏表、陰と陽があるように「義務」が(明文化されない暗黙のものも含めた)自動的に、ある意味自然的に発生するにもかかわらず、それには目を向けず、場当たり的屁理屈で対抗し目の前の現実を回避する。

最近は見かけなくなったが、細木数子がTVに出ていた時にゆとり教育の弊害について同じようなことを言及していたが、権利だとか、ゆとりというものは本来自らが学習し勝ち得ていくものであって、
(人と比較した上でしかその関係性も成立していない。)
つまり法で何でも定義して権利を単に平等に与えていくがためにこうなってしまう。
(逆に法を定めるが故にその反作用としてその隙間に権利が発生しているとも言える。)
与えられてしまい、体験するなり、学習するなりの過程を放棄するが故に始まりも終わりも、因果関係の見えない、わからないバカが生まれてしまう。
それが今の大人に多い。多すぎる。

民主は、最終的には最小単位である各個人に力を持たせて成立・・・が理想だと思うが、「力=権利」という、すり替わってしまったような、浅はかな風潮がまかり通っている気がする。
何も暴力を擁護するわけではない。
此処で言う「力」とは自ら考え、協調し、生き抜いていくための個人に必要とされる資質としての「力」であって、机上の、人を説き伏せる、尤もらしい平均論ではない。増してや個人の裕福な欲に起因する屁理屈でもない。

仕事でこの地域のとある測量(土地境界)関係の代表格の人と現場で話す機会があったが、ひょんなことから、最近よく聞かれる、
「野山から都会へ入り込む動物達の話」になった。
いわば人間と動物の境界(なわばり)の話。
その代表格の人はそれら現象が一般マスコミ、評論家、大学教授がよく言う、
「人間が動物が住む自然環境を壊したため」だとか「温暖化等の自然環境の変化が原因」などは大きな原因ではないという。
一番の原因は・・・
「人間が弱くなったからだ」という。

正にそのとおりだと思った。戦うことも追い払う知恵も失伝してしまっている現代の人間。
本当の自然環境を知らずに法の下でぬくぬくと生かされている世界の実情を知らず、たかが与えられただけの権利をさも自分の力であるかのように語るバカの何と多いことか。
彼らは道路や公園で転んで、行政に訴える。自分の子供の教育不足を学校の責任にする。
じゃあ、彼らは世界最後の日、一体誰を責めれば気が済むのだろう・・・。

自分の考える理想の民主は、日本においては程遠い。

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これを書くかは正直迷ったが、敢えて書こうと思う。
とても不思議だが、事実の話。
自分には祈りの的中率ほぼ100%の神社がある。
(正確には自分自身についての祈りの内容のみ、自分の幸運についてのみに限られるが。)
これに気がついたのは、もう10年近く前になるが、恋愛に関しての願掛けをしに行ったことがきっかけ。
それが、その週の間、もしくは極端には翌日にだいたい叶う。
しかも、当てにして行っても(それはある意味邪念といえる・・・があっても)、叶ってしまうのだ。

さておき、
どうも昨年の年末あたりから、自分の運気が落ちていることに薄々気がついていたが、
易では今年は自分は軽い厄年のようで、それが当たっているなあとなんとなく感じる。
今年に入り、嫁さんの厄落としも兼ねて、その神社に行ってきた。
そうすると、とたんに運気が向上するのだ。
しかも気のせいとはとてもいえない実感がある。
もうすこし掘り下げて言うと・・・
例えば仕事で、やりづらくて立場の悪くなるような仕事があったとして、平社員横一線で誰がそれを受けてもいいはずなのに、立場年齢関係なくなぜかそれが自分のところばかりに来てしまっているとして、それが他の人ところへ行ってしまうのだ。
立て続けに来ていたもので、脈絡的に「うわ、この流れって次も自分のトコに来るなあ・・・嫌だなあ」
・・・が急に自分を避けるように他へ行ってしまう。もしくは仕事自体なくなってしまう。

そして半年経って、神道では半年経つと気枯れといって、年始におまいりした運気もなくなってしまうと言われ夏に「夏越しの大祓」という習慣があるらしいが、そんなことは忘れていても、だんだん運気が悪くなっていることに気がついてくる。
そこで、お祓いはなくとも、お参りにいくと、また少し運気が回復するのだ。不思議なもので。
もちろん、年始のお祓いがある程度効いているので、すごい悪いこともないが、逆にちょっとの悪いことが大きく感じられてしまう。そういう意味での嫌な仕事がまた来そうになるが他の人のところへ行ってしまい、自分のところまで届かなくなる。
どうも即効で効果がある。間違いない・・・気がする。気の持ちようでもない。

これは他の人を差し置いての自分だけの幸運といえるのだが、それをある意味操れるということなのだ。
ん?これって、なんか最近どこかで・・・

先日、評判が良かったのか、ここ数年筒井康隆氏の小説をアニメ化した「時をかける少女」が放映されていた。それは、時を自由に戻せる能力をひょんなことから身につけた少女が自分の思い通りの時間を過ごすために、好き勝手していたが、ある時それが他の人の不幸に繋がっていることを知る。
つまりは世の中は光と闇、陰と陽で表裏一体だということ。
そして途中から主人公の目的は周りを幸せにすることへと変わっていく。
未来(結果)を知っているからこそ、その道筋を変えていこうとするのだ。

それが何なのか、どうしてなのかは全くわからないが、どうもそうなっている気がする。
今、自分が生きている世界も全く一緒のことが起きている気がする。
つまり、逆なのだ。
結果を知っていて、現在祈っている。いや、祈らされている・・・?
でなければ、ここまでの幸運の的中はありえない気がする。
うまくいえないし、これは実感もないが・・・
例えば、未来の不幸になった自分がいて、それを食い止めるための唯一の手段として、
「それ」
があって、それを未来から教えてくれている、もしくは未来を既に知っているような気がしてくる。

まあ、操れるとしたらそれを使わない手はないにしても、何か、何か不安を感じてしまう。
「そうそううまくいくはずがない」
だよな~。フツー。しかし現在まではうまくいっている。
(ただし、賽銭の額もそれなりだけどね~)

そういえば、合気についても今年の年始に初めて祈ってから、半年くらいで叶ったなあ。
うん、やはり効果がある。

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そう・・・例えるなら、宗教の根源、発生源。

神道は言わずもがな、おそらく悟りを得るという仏教、そしてキリスト教もおそらく、創始者はある程度知っていたと思われる。
彼らは、不思議な力が使えたという伝説は後を絶たない。

伝説のどこまでが真実かは別にして、不思議な力という点で合気は一致する。

精神面でのことも当然一致する。
精神面が重視されるというか、自分コントロールができないとスタートにも立てないから精神性と強く関連し、それが結果、人の道を説くことに繋がる。


科学と宗教は両端で相容れることは無いが、同じ真実を求めている。

昔の達人は経験則で伝書を残しているが、そのほとんどは宗教や道を説くものと捉えられることが多いが、それは宗教という概念が生まれて久しい現代からの見方であって、彼らは現象とそこに至るまでの筋道の真実を、懸命に例え、伝えんとしていた。

追求すると宗教、哲学でしか表現できない世界に踏み入る。

しかし、それは・・・
その程度でしか現代の人間はまだ語彙を持たないためであり、真実を実感として共有するだけの表現がない出来事であるから。

合気自体は決して宗教ではない。哲学だけのものでもない。
物理現象として発生することだが、一般科学がそれを認知していないだけの話。
未来には必ず明らかにされる人間の真実。

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そう・・・例えるなら、本来色の無い世界に色を見つけようとすること。

目は電磁波の情報を取り入れ、脳は色彩を作る。
しかし、目の前の物体に反射した電磁波を取り込めないとしたら、
色の概念は無い。

電磁波で反射したものを捉えるのでなく、目の前の物体の本当の色を探ろうとすることに近い。
それは視覚を超越した世界である。

視覚を超越してしまえば、他の動物や昆虫に紫外線が見えるのと同じく、感知できない存在に気がつくことができる。
視覚という常識に縛られるから、外の存在に気がつかない。
それは何も「霊」が見えるとか、
「気」が見えるとか、そういう怪しい話ではなく。

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