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今日書くことは、まあ選挙の影響だけでなく、いい機会なのでいままで思うところを軽くまとめてみた。
仕事柄こういうことは書いてはいけない立場かもしれないが、それだから感じることも多いため、敢えて書き残す。

今は法に定められていることは行使する権利があるし、法にないことも権利を主張できるものとして、好きに主張してしまっている風潮がある。言論の自由とは次元の違う話。基本的人権とも違う話。
いわゆる権利意識の高まりというものだ。

多くの人は・・・権利を行使する際、
物事に裏表、陰と陽があるように「義務」が(明文化されない暗黙のものも含めた)自動的に、ある意味自然的に発生するにもかかわらず、それには目を向けず、場当たり的屁理屈で対抗し目の前の現実を回避する。

最近は見かけなくなったが、細木数子がTVに出ていた時にゆとり教育の弊害について同じようなことを言及していたが、権利だとか、ゆとりというものは本来自らが学習し勝ち得ていくものであって、
(人と比較した上でしかその関係性も成立していない。)
つまり法で何でも定義して権利を単に平等に与えていくがためにこうなってしまう。
(逆に法を定めるが故にその反作用としてその隙間に権利が発生しているとも言える。)
与えられてしまい、体験するなり、学習するなりの過程を放棄するが故に始まりも終わりも、因果関係の見えない、わからないバカが生まれてしまう。
それが今の大人に多い。多すぎる。

民主は、最終的には最小単位である各個人に力を持たせて成立・・・が理想だと思うが、「力=権利」という、すり替わってしまったような、浅はかな風潮がまかり通っている気がする。
何も暴力を擁護するわけではない。
此処で言う「力」とは自ら考え、協調し、生き抜いていくための個人に必要とされる資質としての「力」であって、机上の、人を説き伏せる、尤もらしい平均論ではない。増してや個人の裕福な欲に起因する屁理屈でもない。

仕事でこの地域のとある測量(土地境界)関係の代表格の人と現場で話す機会があったが、ひょんなことから、最近よく聞かれる、
「野山から都会へ入り込む動物達の話」になった。
いわば人間と動物の境界(なわばり)の話。
その代表格の人はそれら現象が一般マスコミ、評論家、大学教授がよく言う、
「人間が動物が住む自然環境を壊したため」だとか「温暖化等の自然環境の変化が原因」などは大きな原因ではないという。
一番の原因は・・・
「人間が弱くなったからだ」という。

正にそのとおりだと思った。戦うことも追い払う知恵も失伝してしまっている現代の人間。
本当の自然環境を知らずに法の下でぬくぬくと生かされている世界の実情を知らず、たかが与えられただけの権利をさも自分の力であるかのように語るバカの何と多いことか。
彼らは道路や公園で転んで、行政に訴える。自分の子供の教育不足を学校の責任にする。
じゃあ、彼らは世界最後の日、一体誰を責めれば気が済むのだろう・・・。

自分の考える理想の民主は、日本においては程遠い。

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