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質量というものと1Gというものが人間にはわからない非常に厄介な存在である。
生まれてこの方、地球引力による1Gというものは、人体を維持する上での大前提として、無意識が管理しているからだ。
無意識は意識よりも時間的に先行しているため、意識は所詮、無意識の行動の追認識に過ぎず、身体が無意識にGを調整してしまうと、意識的に気が付く術がない。
意識が気が付くのは1Gを越えて、重さや圧力として感じ取った時のみとなる。
 
だからこれを間接的にコントロールするために感覚でわかる「気」というような便宜的な概念を導入したりすることが研究されてきたのだろうと自分は推測する。
しかし「気」も感覚である以上、先行する現在時点(無意識の働き)に対しては、追認識に過ぎず、基本的には感じること自体が力(圧力の発生)を意味し、1Gを精緻にコントロールするための抵抗値になってしまう。
(ただし「気」とは別のものを指す場合もあるため、一概には言えない)

もうそうなると、感じられない次元の無意識自体を鍛えるしか方法がなくなる。
この1Gという質量のエネルギー自体の存在状態を推測して、それを管理する無意識をそれ専門に適応するようにしていくしかない。
そのままではボンヤリとした、身体の楽ばかり追求する我儘な無意識を目的に対して集中させるような鍛え方をしなくてはならなくなる。 
ただし目的に集中はさせるが、1Gを越えるような加速度は発揮しないような常態に身体自体を作り変えなければならない。

1G以内に加速度を抑えるという概念が分かれば、「動くけど動かない」は言わずもがな、よく言われる「力は抜くけど脱力ではない」という言葉では意味が分からないあたりの加減が見えてくる。
何を意識して鍛錬した結果、無意識がどう鍛えられるかが鮮明になってくる。

いわゆる脱力は無重力空間(みかけ上0G)なら確かに外に出る力を抜くことができているが、地球引力下では、脱力したら、全身の力が勝手に1Gとして地面側に出てしまう。
もちろん、そのままなら1Gなのでそれ自体は問題ないが、自分で動いたり相手から攻撃されれば、人間は地面を踏みしめるために、1G以上の加速度で力が地面に出てしまい、また反力が生じ1G以上の加速度で力を逆向きに発揮するため力の動きの起こりを読まれてしまう。(あとは・・・脱力だと健康上の問題が発生する)
脱力ではダメと言われるのはその点で、質量とGという見えない感じられないものをあらかじめ制御することが出来なくなってしまう。(無意識に管理されているものをあらかじめ制御するには原理を理解した上で、意識的に予防線を張っておかなければならない。予防情報を繰り返して無意識のコードを書き換えしなければならない。)
引力下で本当の意味での外に出る力を抜くためには力を地面に出さないように(落とさないように)しなければいけない。
これはもちろん地面方向だけでなく、上方や水平方向に対しても同じで、1G以内にしなければならない。
どんな状況であっても、相手に分かる力を出さない身体に鍛えなければならない。
しかし逆に言えば、1G以内の加速度なら外に出しても、身体がバランスを維持できている範囲であれば構わない。

あとは普段ほぼ無意識に1G以上に発揮してしまっている力にいかに気が付いて、どうやって無意識を矯正していくかが非常に難しい、時間のかかる作業になる。

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広義の○気は、いくつかの要素がセットで出来上がる「行為」の
どれか1つの要素が欠けたり変位したりすると、
「行為」が成立しない、または意図しない「行為」が成立してしまうようになる脳の現象を指すと思うが、特定の○気の現象を理解しようとする上では、これでは具体性がなく説明になっていない。

特に相手の力抜きや相手を倒してしまうことを目的とした場合は、
上のいくつかの要素のうち、Gの管理という脳の要素を書き換えしてしまうことで、
相手自身の内部に生じてしまうもので相手が行為不能に陥るものになる。

ほとんどの人はGという要素について、あまり理解しようとしていない。
精々車の遠心力を感じたり、ジェットコースターに乗ったときに強いGを感じる時くらいしか感じることも考えることもないだろう。
だから質量はもとより1Gや斥力が感じられにくいという性質があることもあまり知られていない。

力がいわゆる力となって外に影響するためには1Gを越えなければならないが、
1Gを越えて外に出力すれば身体は同じだけのGを逆方向に発生させないと身体は倒れてしまう。
つまり力を外に出そうとすれば、必然的に体内で1Gを維持することはできない。
またどんな小さな行動でも人間は手を出せば、手の平に触れたものから斥力を得て安定を図ろうと脳は管理をしている。

力を出してきた相手に対して、こちらが動いても1Gを崩さなければ、相手が触れた時に
○気がかかり、相手の身体は倒れないようにするために無意識に足元から斥力を発生させる。
こちらが1Gであることも、相手自身の中で斥力が発生していることも相手は感じない。
相手は気が付かずに体内で釣り合ってしまい、1Gになり浮いてしまう。
力を外に出した1Gの釣り合いは非常に脆弱であるため、押せば簡単に倒れてしまう。
こちらは1Gを変えないように動いてしまえば、相手は何もできずに倒れてしまう。

○気を掛ける方は脆弱な1G状態にならないように、またどんな自発的動きや相手からの力を受けても1Gを崩さないように鍛えなければならない。

おそらく・・・太極拳なんかで、ゆっくりした動きをするのは加速度的な動きをしてしまうと1Gを越えて身体の外に相手からわかる力が出てしまうことを防ぐために、1Gを維持した身体の使い方を鍛えることに主眼を置いているからだろう。


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わかっている人には当然の内容である。

言葉の使い方、選び方も合っているかわからないが、自分の書ける言葉で書いてみる。

「重さ」に関する物理と感覚の言葉のイメージの整合について。


人が皆、重さという言葉と現象をどうとらえているかはわからないが、自分がわかったことは、重さという言葉と実際の現象が相違することだ。

自分は重さは言葉として質量とほぼ同義で、重さとは元々あるもので変わらないものと解釈して使っている。
(重さという言葉にいくつかの意味が存在するのだろう。しかし、それをあたかも同じ意味であると解釈して、ごっちゃに使っている。)
だから科学変化でもしない限り重さは変化しないと思っていた。(物理化学音痴だから)

重さというのは量りにかけたときの一定した下向きGの圧の現れであるということだ。
物理で言う重さもGであることは変わりないが、地球上の動物以外の静止物体を量るとき、それは変化しない。変化がないように観察される。
しかしそれはGであるため、人間の感じる重さは変化する。

人間が感じる重さとは、地球から受ける引力によって質量に発生する、引きGのことで、普段、ただ立っているときは引力斥力が体内で釣り合っているときが多く、上向きと下向きが釣り合えばGは体内付近で1Gで発生しているから、重さを感じない。
しかし体調が悪く筋肉が作動しないとき、抗重力筋群が使えないため、斥力が働かず身体の外に向かう下向きのGを強く感じるので、身体が重いと感じることになる。

つまり人間にとっての重さとはいつも変わらずにあるものではなく、増減するもの。
そして身体の外に出た出力圧とでもいうものを重さとして感じている。
物理で言う客観ではなく、主観が観察する「みかけの力」というものに近い。
 
質量自体を人間は感じることができないため、他人をおんぶしたり持ち上げるときも感じ取る重さはGの状態に準じて変化する。
子供を抱っこしたとき、何かをしようとしているとき、暴れているとき、脱力しているときで子供の重さとして感じるものは大きく変わる。意識のない酔っぱらいを持ち上げるときはとんでもなく重い。
(ニュースでよく聞く「意識がなく重体」という言葉は正にそのとおりか)

このいわゆる質量とか重さではない、Gというものには人間にとって常識では考えられない別の性質が存在する。
(自分にとっては、すでにここまでの内容で常識外れだと思うけどね。)

これが〇気の現象に大きく関与する。

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ようやく触れた相手が吹っ飛ぶ原理の目途がついてきた。

と言っても、原理だけで実行するにはとても鍛え方が足りないし、
現状、子育て中で時間が取れないが、
鍛え方の指標ははっきりした。

既にわかっている人からすると笑われそうだが・・・。

これはほとんどの人が「物理常識」と「身体で実感できること」の、たまたま共通している点を、
同一の現象と思い込んでいるので、
物理を疑うことも、自分の感覚を疑うこともしていないから気が付かない。
気が付かないから、物理常識ではありえないとなってしまう。

確かに自分も物理常識として考えた場合ありえないのはわかる。
しかしそれは外から観察して一般的に説明した場合だ。
そしてそれは人体の物理とは全く異なる現象である。

一言で要点を表現すると、かなりトンデモな言葉になるが、

「意識をすると重さが現れる」

ということになる。

バカバカしいけど、これが原理の一番簡単な表現だと思う。

そして、この先があればまだ違った総合的な理解の段階があるのかもしれないが、

ここまでわかったからこそ、〇気が何かがあらためて分かってきた。


いろんな解釈があると思うが、自分は、

「〇気」とは、人体の「ある特定現象」を表す固有名詞であって、

「〇う」とか「気」とか、はたまた「気が〇うから」とか「〇わせる気だから」とかそういうことじゃなく、

「〇気」という固有名詞として、特定の現象を指して武田惣角は言っていたのではないかと思う。

だから「〇気を掛ける」という表現をしたのではないだろうか。

佐川幸義が「力ではない」と言っていた意味はそういうことだったか!と感じ得た。

しかし「力ではない」と言葉として言えるのは、〇気の身体に成れた人だけだ。

他の人から見たら、人が吹っ飛ぶ現象なんて力以外の何物にも映らない。


感応で自分から気を感じて飛んでいるのも、本当の〇気で飛ばされているのも、

人間の主観にとっては同一の現象だが、

掛けられるかどうかの点で言えば、雲泥の差がある。

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人は1Gでは社会的表現として外に仕事をするための力は発揮できない。
だから通常は身体のある一定範囲を全体質量から分離してその分離した部分を筋肉を絞り込んで加速させて1Gを越える力を生み出している。
筋肉を固めて断裂させても1Gを越えた重心を発生させてそれを力として使うことは確かにできるし、時にそのプロセスの簡便さから必要とされ筋力を鍛えることの重要性が説かれていることもわかる。時間観念が区切られている一般社会では実用的だ。
ほとんどのスポーツはそのプロセスの先にどれだけのGを発生させることができるかで競われているといっても過言ではない。
だからプロの格闘家や武道の段持ちには、それ相当のGを発生させて、使うための技術があるから、当然〇気が使えるから攻撃を防ぎ得るわけでもない。
しかし、そういった力は1Gを越せても部分的な質量しか加速できない。なぜなら体内で質量を分離してバランスを維持しながらやらないとならないからだ。1Gを越えてしまうと、他の部分で同値の逆の力を発生させないと姿勢維持できない。
そうなれば、体内でベクトルはバラバラになるから、身体の質量全体を使うということは実現しがたくなる。
 (要は、咄嗟にG加速を繰り出してもバランスを崩さない身体になるように対向筋肉や感覚を鍛えるのが普通の鍛え方になるわけですね)
操作しやすい破壊力を使えるのと引き換えに弱点を作り出していると言える。
(これが弱点とならないように各々の技術的な工夫がなされているわけですね。)
 
ともかく普通の人は、そうやって身体は質量をバラバラに管理する代わりに、筋力を絞り込めるように鍛えて、一般の社会生活に合わせている。
親の真似、他人との集団生活の中で意識の使い方(身体の使い方)を真似ることで、1Gを越えないと何かをしたことにならない社会生活に合わせて身体の仕組みを成長させている。
ここらへんは気が付く気が付かないは別として、至極当たり前のことの解説であるが、ここに実は大きな意味が隠されている。

相手に大きなダメージを与えたければ、相手の倒れまいとする対向反射を呼び起さなければならないから、部分的な質量を加速させてGを大きくして当てればいい。
そうなると、相手は倒れないことが前提であれば、攻撃を受けた部分に対向Gを作用させるから、そこで自分と相手の力の挟み撃ちになって、組織器官が壊れる。それがダメージとなる。
しかしこの方法で相手を倒そうとした場合、相手の対向反射で起こすGよりも、上回るGで攻撃しなければならない。
つまり力には力を・・・となってしまいダメージは与えられても倒すことは困難になる。
だから急所(対向反射を防ぎにくい部位またはそのダメージが身体管理に大きく影響を与える部位)に当ててノックアウトを狙うという攻撃算段が生まれる。
相手を倒すことを目的とした場合は、相手の対向反射を起こさないGで当てればよい。
1Gで相手を攻撃すれば、相手は感知できない限り対向反射でGを起こせないから、1Gを上回る抵抗ができず倒される。
1Gでは外に仕事をするための力は発揮できないということは、発揮するためには1Gを越えるために必ず「加速」をしなければならない。加速は「距離」(一定の空間)を必要とする。
距離を必要とするからこそ、間合いは大事になるわけで、プロの格闘家やボクサーなんかを相手にすれば、その加速の間合いを使ってとんでもないGを繰り出してくるから、まともに喰らったらアウトになります。時代が違って、刀による斬り合いだったら尚更です。
この間合い0(距離0)で、接触している時に相手の使いこなす質量(1G)を突破または無効化できなければ、こちらは「〇明な力」引いては「〇気」を開発できない。(0距離で発揮する勁力に対しても基本対処は同様)
そう考えたとき、座取りの〇気上げというのは、それを会得するのに全く理に適った鍛錬方法であると言える。
(こういったことがこうやって言葉にされて伝書で残されていないことからしても、昔の人はこれが勘でわかってしまった天才ばかりだったということだろうか・・・。恐ろしい。)
そしてそれがわかると、相手が加速してGを増幅するよりも先に距離(間合い)をつぶしてしまうことで、離れていても相手は力を発揮できなくなるということがわかる。相手が使いたい空間を先に制してしまうと、それだけで相手はGを加速することができなくなってしまう。(柔道、相撲は組んだ状態からを鍛えるので、手ごわいと思われるが基本対処はこれも同様)
鍛錬においては体内に出たり入ったりしている1Gは存在を感知できないので、重量物を持ち加えることで、Gへの対応を鍛えることになるが、1Gを立ちで鍛えるために站椿(立禅)があり、これもまた静の中の動を確錬するために理に適っている。
〇気を使う武道、武術は基本的に動かないことで、総質量を確保している。つまり余計な姿勢維持の逆Gを身体に作らせないことで、身体の質量の一体化を図っている。他の武道やスポーツでは「部分加速→できるだけ全身で」・・・なのに対し〇気は基本的に「全身一致」から始まり→「力のステルス」→「相手の力の分断or相手の力の暴走」へと技巧を進化させていく。
1Gで「全身一致」を確保したまま、どうやって動き始めるかからようやく「始まる」のだ。それが身体作りになる。
動かずして身体の質量を引き出せるだけ引き出して接近し、相手が狭い空間でG加速しようとも追いつかない身体の総質量をもって相手を制してしまうのがこの技術だ。
総質量であっても1Gを越える加速をしないから、相手は体に力が加わってもそれを「力」と脳は感知できずに抵抗できなくなってしまう。そして相手の脳は対処のため自ら右脳化をして意識を飛ばしてしまうことで次の行動がとれなくなる〇気に掛かっていく。
遠間では部分的なG加速で牽制&ヒットが狙えて、接近では100%の精度で〇気が使えるとなれば、相当実用的な強さを発揮できるのでしょうが、それを実現するには若いままの肉体で200歳くらい生きられないと無理かな・・・?

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