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生まれたばかりの子供には外界を捉える視点も、自体を認識する情報もない。
例えれば無に近い。自体内部に発生する情報で泣くだけ。
そして、子供は外界の全ての情報を脳内で再生して、その共通点から外界の構造法則を捉えていく。簡単に言えば「真似をしていく」ことになる。

子供が膨大な外界の範例を再生していくということは、親の普段の生活の形式や生き方、引いては意識が一旦全て移るということで、それを通して子供は外界を捉える視点(フィルター)を持っていくことになる。

嫁さんの親が子供に会いに来るたびに子供に感情が芽生えていくような気がする。
これも子供に会う人の意識の状態がそういう状態だからだろう。
一緒に住んでいるからこその様々な思惑を一切持たず、純粋に子供に「会いたい」「楽しい」「かわいい」そういう動機でわざわざ来てくれる人のそういった感情が子供に移るのだろう。

子供はそうやって、会う人から様々なものを「授かって」いく。
だからこそ、育てる環境、条件が重要なのだろう。
とりあえず、邪ではない、陰と陽を両方授けていけるよう努力が必要だ。
少なくとも、授けられる情報の種類という意味では、自分の親と同居で良かったと思う。

子供から教えてもらったことは、自分も外界の何を捉えても、その都度脳内で「再生」して、真似しているのだということ。
しかし、それにフィルターがかかっている。フィルターにどれだけ気がついて外せるか・・・。
そして出会う人から「何を獲れるか」。

一期一会とはよく言ったものだと、あらためて思う。

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なぜ歳をとると時間が早くなるのか。

いろんな説はあるけれども、1つ思ったのは、

大人になりいろんな経験により「始まり」と「結果」がわかることで、間(あいだ)を意識、観察することがなくなり、意識が始まりと終わりにのみ発生する・・・(不必要な部分をいらない情報としてしまう)
つまり短絡してしまうことにより、実感できる意識にしか時間の流れがないために、時間の経過は当然早くなる。

つまり、間が見えなく、感じなく、捉えられなくなってしまっているのだ。

経験により当たり前になった部分は観察しないから、時間がそこには流れなくなる。

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若い頃は年功序列なんて、古い考えだと思っていた。

でもこの技術をはじめてからは考え方が変わってきた。

欧米が能力主義によっているにもかかわらず、日本に年功序列が息づいている理由は、確実のあったのだと。

でも「あった」という過去のことだから、今の人間にはわからない。

端的に言えば、
若いうちは力があるが、経験がなく、
歳をとれば力は無くなるが、経験が増える
だからお互い様で、平等・・・というのは言い訳だ。


若者が経験でも実力でも勝てない年寄りが昔は本当にいたんだろうと。


同様の理由で、「敬語」にも意味があったのだと気が付いた。
今はほとんど形骸化している感が否めないが・・・。

仕事が人生のウエイトのほとんどを占める現在と、生き残ること自体も人生に含まれていた昔を単純に比較して、能力主義が間違っているとは言えないし、年功序列が正しいとは言えない。
けれども、現代のシステムだけでそれらの価値を判断するのは安直だ。

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前から、嫁さんや母親には手当て治療の真似事は定期的にやっていた。

父親は職人で、少し頑固っぽいところも感じていたので、おそらく手当て治療みたいなものには関心もないし、信じないだろうな・・・と勝手に思って、いままで、そういった話すらしたことがなかったし、やったことは当然なかった。

父は今年、脳梗塞で一時入院し、幸い大事に至らなかったので、今はそう不自由なく生活しているが、重いものを持つ仕事を長年やっていたので、腰を痛めるのはしょっちゅうあるし、ここのところの気候の変化で少し調子が悪そうな時があるようだった。

夕べ、話す機会があったので、少し背中から頭にかけてを触ってみると、男にしては小柄なのに、力仕事をしていた人なので、思ったより筋肉の付き方はしっかりしていて、しかもそう固まっているところが少なかった。
若干、腰と肩甲骨の間付近にこわばりがあったので、何気なくそこを治療してみた。

嫁さんや母親に治療をしたときよりも、治療の手ごたえがあるというか、明らかに効いているのがよくわかった。驚くほど素直な身体と言うか・・・。
すぐにやわらかくなった。

その後、終わって話をしていると、何も説明していないのに
「背中が楽になった。何かがスーっと抜けていくような感じがした」
と言っていた。

自分でもそこまでの感覚はなかなか感じたことがないのに、
鋭い、良い感性を持ってるなあ・・と感心した。

自分も昔から決してがっちりしている体型ではないし、筋肉も付きにくい。
父親のセンスの良さからすると、この技術はもしかして、遺伝による体質とか骨格的な性質も影響するのかもしれないと感じた。
向いているタイプっていうのがあるのかもしれない。

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自分は、合気に関して、あまりスピリチュアルな観点から見ること・語ることを遠慮していた。

それこそ、宗教のように、神だとか、魂だとか、霊だとか、気だとか言っていたら、それですべて説明が終わってしまう。

科学的とは言わないまでも、人間を相手に実験して、ある程度同じ結果が得られるのであれば、理論構成はできる。

おのずと原理の輪郭が見えてくる。

しかし、そこから結果として得られるものが、そういった一般的には理解不能なものに帰結していくこともある。

今まで書かなかったが、
自分の習う合気の技術の先生たちは、
みな、いわゆる不思議なことが現象として起こせる。
いや、この技術の身体になると、それができるようになってくる。

その1つが「手当て治療」である。

昔から「傷の手当て」という言葉などで言われるように、手を当てる行為、その言葉が生まれた背景には、実はそれなりの意味がある。

自分もこの技術をはじめて1年くらいで、少しずつそれができるようになり、
今では、家族内では、この「手当て」で凝りや痛みを当たり前に治療している。

はっきり言うと、なんとなく・・・ではなく、確実に効果があるので、

家族も納得して、それを受け入れている。

こういうことは、一般にはポジティブに受け止められる人でも「まあ、あるのかもしれない」程度の理解しかされておらず、そう表に出ていない情報であり、

「合気の技術の根幹」になるものの1つである。(だから余計に秘密にされる。)

驚くべきことは、これができるようになってはじめて、

「手当て」ってそういう意味なんだ!!

ということに気が付くことだ。

言葉には、実は先人達の発見、経験してきた、現代人が想定できない、人間の真実が込められている。

温故知新とはよく言ったものだと思う。

これから、こういったことも少しずつ書いていこうと思う。

信じるか信じないかは知ーらないっ。

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