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3点目の範囲の確認の方法の提案。
まず大前提として3点目は目に見えないし、人間の情報処理上では無意識的に処理されていて、その存在すらはっきりとしていないということがある。
それを理解した上で・・・
高い場所で、肩幅よりもちょっと広いくらいの板の上を歩いていくとする。
ちょうど綱渡りのようなイメージ。
低い場所で歩く時と足が使える範囲が変わらないのに、フラついて不安定になる。
誰でも経験あるところだと思う。
これはよく「恐怖」でそうなるとか、バランスを崩したとき咄嗟に足が置ける範囲が狭くなるから、などと説明されるが、半分合っていると思うが、半分は本質ではない。
これは3点目が、歩くことを意識した時に、通常は地面のもっと広い範囲を参照しているため、板を外れた場所は視覚的に遠い距離を映しているために、脳の情報処理上、3点目の当て処がなくなってしまうためである。
つまり足以外に見えない支えを作っていたのが、作れる範囲が狭くなるから不安定になる。
そしてこの範囲は基底面よりも明らかに広い傾向がある。
(この3点目の当て処がなく、支えの少ない状態を人間は「恐怖感」として感じている)
「心理面での支え」と言えばわかりやすいと思うが、これが無自覚、無感覚で実際に物理的に作用しているものを3点目と表現している。
これは、訓練でその範囲を変えることもできるし、足元を見ず目線を上げて、参照先を地面でなく、目的位置に向けるとまた安定感が変わる。
このように人間は質量のエネルギー(今後「質量E」と呼ぶことにする)をあたかも3点目の自分を支える点のように外に出力して、身体を固定し、身体の安定を図っている。
これは何も高い場所に行かなくても、その場で目を閉じたり、片足で立ったりしても確認できる。
こういったことで3点目の範囲というか、むしろ立体的な構造がイメージで推定できる。
こうやって例を挙げれば、多少は
「3点目とは、具体的にそういうことを言っているのね・・・」
くらいはなんとなくわかるのではないだろうか・・・。
ZZZ・・・。ふごっ。
3点目を見えない手のように、扱うことができるようにするには、まず3点目を無意識にバランス維持に従属させて使ってしまっている状態から解き放たなければならない。
そのために地面や壁にへばりつこうとする無意識を改め、3点目を外に向かわないようにしなければならない。
次に、見えなくするには、1Gを越えない加速度で動かさなくてはならない。
(追加する加速度が×0.1G程度という表現の方が正確なのかな?)
無意識に強い加速度で力を発揮する癖を止めなければならない。
この1G以内で確保した浮いた力の状態で、その配分というか、身体との相対位置関係を変えないで、身体を動かすと、相手は無意識にそれをコピーして行動不能に陥る。
体は動かしても、その力のようなものには「何もさせない」「何も変化を起こさない」。
例えば、分かりやすくそれを仮に「重心」という言葉に置き換えると・・・
相手を「押す」動作の場合、「押す」という力動作典型の重心分布ではなく、身体の形は押していても、ぼーっと突っ立っているような「何もしていない」重心分布だった場合、相手は「押される」に対応した「押し返す」「動かされないように構える」「耐える」という通常の重心分布の対処ができずに、無意識にこちらの「何もしていない」をコピーしてしまうことにより、何もできないまま倒されることになる。力の配分や勢いを変えられないから力が出せなくなる。つまり人間の無意識は(五感は別にして)それを捉えて対応しようとしているということになる。
(この無意識のコピー機能を指して、○気と言われるのだろう)
実際は、この力というものの相手の状態をコピーしているのではないと思える。
というのは、人間はありのままのエネルギー量自体を感知できないからである。
接触すれば触覚から温度や圧力、反応した自分の筋力の圧力等は知ることができるが、それはイコール力の量ではなく、自己体験からの推測にすぎない。
ましてや、離れた相手から「勢い」を感じる時などは、完全に接触感はないはずで、だが確かにあの攻撃が当たったらかなり痛い・・・等は自己体験から推測ができる。
ということは、人間は相手の直接的な力ではなく、空間に向かって相手が発した力=意識をコピーし自己体験と比較している可能性が高い。
質量エネルギーの体内分布において変化がないというのは、人間の脳にはニュートラルな状態(行動していない状態)であるということなのだろう。
例えば、電車や車の中で、加速して一旦定速(1G以内の加速度変化)になってしまえば、体内の分布が変化しないから、車外と比較して高速で移動していようが、「何もしていない」のと同じ認識になる。(また×0.1G以内の加速度が身体が揺らいでいる、分布の微弱な変化状態だと人間は眠く(自己体内の認識が薄くなる=無意識化しやすく)なるようだ。これは車に揺られても、自身の心拍や呼吸の動きでも起きる。これが〇気を受けたときに何が起きているかわからなくなる(無意識化=無認識化)現象に拍車をかけている。同様にそういった生体の何もしていない状態に触れると、何もしていないをコピーするため、力が出せなくなる=力が抜けるのを利用したのが手当治療の基礎)
何もしないための要件は、質量のエネルギーの位置分布と加速度を変えないこと。
これらを変えないまま身体を動かしてしまう。身体の中身と外見を別々に使う感覚。
しかし実際はそこに1Gの質量の力はあるから、相手は動かされてしまう。
相手は対処のシステムがダウンしてしまうために、力の防御線を張れないから、相手の重心にダイレクトに作用してしまう。重心(の球体)が浮かされてさらに回転させられてしまうので、それに物体としての身体が付いて行って転がってしまう感覚。
この人間が持つ無意識のコピー機能は、自分の身を守るために、誰にでも備わっているものであろう。
再びこれを重心という言葉に例えると・・・
相手の行動を読むために、相手の重心配分を読み取って、一旦、自分の重心配分をそれに置き換えてしまった上で、自分の重心配分が「こういった状態」なら、相手は「こういう行動」をとろうとしていると推測し、相手の行動に対処するためのシステムである。
なぜ脳内で想定するだけでなく、重心の置き換えまでしてしまうのかについては、(おそらくであるが、)相手と全く同じ配分にしてしまえば、相手の力の出所と同じ個所で力を発揮できるので、相手の力量がこちらを遥かに上回らない限り、まず相手の動きを止められる可能性が高いことと、即押し負けることはないからそれを危機管理方法として選択(採用)しているのだろうと推測される。またそこから相手の重心が変化した場合、次の行動を正確に読み取るためにも効率的なのだろう。相手に合わせてさえおけば、相手が攻撃に移った瞬間にこちらも回避行動に入れる。(ここらへんが「〇吸を合わせる」と言われているあたりか?)
しかし自覚なく相手に合わせてしまうという、無意識瞬時にコピーできるという優秀さを持つが故に、その存在が判然としない上に、意図して扱う上ではその性質が障壁にもなる。
いつもの慣れた相手であれば難なくできても、何か特別な情報・・・
(例えば、上司、先輩、年配、先生、上役、上級、筋骨隆々、背が高い、体格が良い、初めての相手、負けたことのある相手、怖い人、強い人、不気味な人、何を考えているかわからない人 等)
を感じ取ってしまう相手だと、相手はどう出るんだろう・・・と相手の重心分布を無意識が勝手にコピーし、何らかの対処をする前提で身体の重心配分を変えて相手に合わせてしまうので、相手とぶつかりが起きてしまう。(他人や環境の影響により無意識で勝手に変わってしまうとはいえ、この重心配分が変わったことをなぜか人間は自己認識できないようになっている。1Gだと地球上で当たり前の情報だからか、二足歩行という不安定を逐時管理しているためか、はたまた無意識が時間的に意識認識よりも先行しているためか、それとも強制無意識化してしまうためか。いずれにせよ人間の身体のこの事実を見つけて逆手にとって使いこなした武田惣角や昔の達人達はすごいと思う。)
また一度できたからといって、「落ち着いたり」「高をくくったり」しても、配分が変わってしまうので、できなくなる。(ここらへんはゾーンに入れない理由と一緒)
もはや完全に心の問題となってくるが、心の形を現実に即して明確にしてしまうと、これが見えない3点目にとっては大きな悪影響を及ぼす。
相手の状況に合わせてしまっては、ただの力比べで終わってしまう。
これが無意識で行われてしまうから始末が悪い。
あくまで、こちらの状態に合わせさせなければならない。(これが〇気を掛けるということ)
ZZZ・・・。(書きすぎたかも・・・敢えて残しとこ)
力は3点以上から出力されると、空間に固定される。
3点のうち1点が欠けてしまうと、不安定になり、バランスを崩してしまう。
物体だけでなく、人間も一緒。
ただし、物体は自ら動くことがなく、自ら重心を動かすこともしないため、安定には物理的接触で必ず3点以上を必要とするが、人間はこれがどうも少し違う様である。
人間は2本の足で立っているので、2点しか接触していない。
(これを2点と見るか否かについては、物理音痴の私にはわかりません)
しかし空間固定にはもう1点が必要であり、これを別の形で行っているのではないかというのが今回の主題。
以下テキトーな半端検証?(物理音痴だからわかりませーん)
足の裏は点ではなく広くて面だから、そこに無数の点があるから2本足で安定・・・というのはだったら1本足でなぜ不安定かの説明にならないし、面が広ければ棒でも一応自立はするから、実は無数の点で安定と思えるが、3本足の椅子を押しても倒れないのとは安定性において本質的に違うと思える。
基底面の何割かが地面に面的に接触していて、1Gであれば、安定というのは物理的に計算できるかもしれないが、人間は倒れるのを回避できるから、それは説明になっていない。
立っている棒は押したら倒れてしまうが、押されても人間は倒れることを回避できる。
人間が倒れない原因は「重心操作」であることは誰でも勘でわかるだろうが、
この見えない3点目(もはや点とは言えないが)を形を変えて移動させて絶えず安定化を図っているからこそ、人間は押されても倒れないことが可能なのでは。
つまり個々人が感じる意識上の「重心操作」というもの自体の別側面が、無意識上の引きの力のコントロールであり、身体を空間に固定する3点目ではないかということだ。
この3点目とは空間重心ではないか。
例えば、空中で両腕で壁か何かで身体を支えれば2点が確保され、鉛直に重心を落とせば3点目になる。
重力があるから、落ち引かれる方向が決まっているから、触れずとも質量を用いて3点目を作ることで3次元的に姿勢維持ができる。
これはブランコに乗っていても一緒でしょ?(引力や遠心力やら慣性やらが3点目になるしね。引きの力さえ発生すれば鉛直下ではなく、上方にも発生する。)
人間は2本足だけで立っているのではなく、見えない3点目を作って立っているのではないだろうか。それが歩き等の動作の中では目的位置であるし、立ち止まっていれば、股下の空間等にある。
人間が見えない情報・・・これを仮に霊と呼べば、霊を扱うことに長けた存在(霊長類)だからこそ二本足で立っているのではないかとも思える。
この鉛直の重心線を首を前に曲げることで、発生する抵抗値により意識が強く発達し、他の動物とは違って文明&社会性を持つ要因となり、かつ、真下から前面目的方向に3点目が発生するから2本足で立てるのでは・・・と邪推する。
脳の管理する無意識はいろんな情報に観念的イメージを重ねることで、情報管理しているが、この見えない3点目は言葉にすればおそらく、身体にとっては「安定するための力」とか「重心に発生させる力の方向」とか「引かれ定着する方向性を持つ力」として管理されているのではないか。
他2点は地球との角度で生まれるトルク(前後左右への動き)を防ぐためか。
いずれにせよ、手や足で出力する1点目、2点目と全く同じ情報処理として、引力により固定される3点目を無意識に利用している。(尻尾が退化したのは・・・。)
動きの中で安定するのは、目的位置に3点目が発生するからではないだろうか。
ふと自転車等が走り出すと安定するところが思い出される。
(一輪車は3点のうち2点が見えない点になるのか・・・?難しそうだなぁ)
その見えない3点目を透かすと、気が付かないうちに既に不安定になる。
目的点がなくなるだけで、スカったように人間は不安定になる。
あるはずの階段の段が無かったり、ドアの取っ手が外れたら、スカるでしょう。
でも3点目は物理的接触をしていない上に、引きの力は身体の感覚としてはあまりに慣れ過ぎているために、自身が出力している力の存在に気が付かないから、不安定になる理由すらわからない。
これはかなり実質物理的な(3点目の)管理を脳が無意識にやっているはずである割に、認識上では「目的としようとしていたことの当てが外れるとそうなりますよ」程度の観念上の問題というか、力学とは遠いところでしか説明されないのが普通だ。
それは無理もなく、無意識が意識に上らない程瞬時に3点目の調整を行ってしまっているからであろう。
ここらへんを〇藤〇洋氏は著書「〇意の解明」でこんな風に書いている。(趣旨の抜粋)
「体重を支えているものは足であり、大地である。別にもう一つの支点が人体を支えていることが分かる。そのもう一つの支点とは、「狙いの支点」であり「体から放たれるエネルギー」であり、更に言葉をかえて表現すれば、「目標に伸ばされた気の支点」である。」
この相手の3点目を外から強制的に形状及び位置変更または消失させてしまうような方法があったら、それこそ、相手のバランスを崩し、必ず倒してしまうという技術になり得るのではないだろうか。
この依って立つ3点目の在り方こそが、意識の技術の秘密ではないかと考えている。
前に書いた「浮き」の原理とも怖いくらい一致するナァ。
ここらへんを〇村〇雄氏は著書「〇気修得への道 〇川〇義先生に就いた二十年」でこう表現している。(趣旨の抜粋)
「鍛えあげた大男を、弱々しく小柄な男が倒そうとして、倒れないのを見た人々は、あたりまえだと思う。しかし考えなおせばそれは非常に不思議で神秘的なことで、押されたとき、肉体という目に見える物質だけであれば、二つの足の裏で地面に立っていて、重心も上の方にある、不安定きわまりないものである。2人の男が同じ重心配分をもつ人形であれば、体当たりされただけで簡単に倒れてしまう。倒れないでいることは不可能だ。
〇気とは何か?この非物質的防御システムのスイッチを切ってしまう技術だと言える。その電源を一瞬切ってしまう技術。
〇気によって実際人体が単なる物質のような存在になってしまうことから、人体がたしかにある非物質的システムによって支えられているのだと確認できる。」
もうちょっと考えてみなければならない課題は多いけれども・・・
触れただけでありえないくらい空中を吹っ飛んでしまうというあたりにも多少思い当たる節が!?
少なくともこの無自覚に出てしまっている3点目の力を自ら発見し、状態を把握し、この技術の目的に合わせたコントロールをする方法を見つけないと先には進めないということだ。
とりあえず、これを前回の寝言の時間軸のあり方を含めて考えてみると・・・
頭がパンクした。
ZZZ・・・。
例えば・・・
取っ手の部分を持たずに引き戸を開けるときに無意識は戸の重心をすでに捉えてそこに力を効果的に作用させている。
しかしそれを戸を動かしながら、明確に意識することははっきり言って難しいし、それをやると、すでに、意識も身体の状態も「普通に開けている状態」から変わってしまう。
無意識が捕捉する重心の情報は非常にぼやっとしたものだ。
しかも無意識は重心が「移動」している時にしか、捕捉できない性質を持つ。
逆に意識は明確さを得ようとするため、重心が時間的に止まったある時点の位置の認識しかできない。
意識が捉えようとすると、ある時点の重心の位置は補足できても、それは既に過去の情報で、動きつつの情報の全てを明確に捉えることはできない。
つまり、重心の情報を時間軸を含めた4次元で捉うには、ぼやっとしたまま扱わなければならない。しかしそのぼやっとしているが、なんとなくわかるような感覚が、人間がそれを捉えられるそもそも脳の情報構造の限界で、しかし、それはただの感じ方の問題であり、そういうものだと理解すれば、それ以上、明確さを追求することなく、その情報レベルのまま扱うことができる。
「わからないものをわからないまま扱う」
その扱いの精度を上げられるように無意識を鍛えることさえできればOK。
この連続した時間を捉えている状態の人間に対して、明確さを求めるあまり、ある時点、ある次元しか見ていない人間は力を効かすことができなくなる。
まとめると、
仮想の合成重心収束点の移動軌跡をトレースしたものが物体の4次元(時間軸)の捉え方で、それを捉えるには1つ1つの次元に注視せず、ぼやっとした捉え方が必要になる。
しかしその時、現在の時間で重心の存在位置と動きの全体を捉えることができる。
別の応用では・・・
上のとおり、「わかる」・・・言い換えれば「理解したという実感」ということに明確さを求めてしまうと、勉強でもそうだが、容量が簡単にオーバーしてしまう。
意識が許容できるその「わかっている」実感の記憶領域は極めて少ないから。
だから、1つ覚えると1つ忘れる気がしてしまう。
意識上の実感ではそのとおりで「覚えている」という実感を意識したまま記憶できることは少ないから、特に長期記憶のような膨大な情報をやりくりするような時にその方法は使えない。
しかし、一旦無意識にパスを投げれば、明確な実感はなくとも、膨大な記憶容量があるため、意識せずとも「記憶できている」ことの確認作業と、「出力能力加減とそのスピード」の確認さえしておけば、記憶したことを出力するという作業においては、目的が果たせる。
そこに、覚えているとか、覚えたという実感は不要。
記憶していることの明確さを捨てることができた人間だけが、膨大な記憶量(入出力能力)を手に入れることができるという矛盾がある。
残念ながら手に入れた実感は発生しない。
結果が先に得られ、実感を求める余り、取り残された心が「残心」となる。
興味のない、難しいことほど、やりたくないことほど、「覚えなければならない」必要性からから「覚えた」という実感が欲しくなる。
子供の頃から、興味のあること、何の役にも立たないくだらない知識ほど、簡単にインプットされて、しかも大人になった今でもすぐに出力できることって誰でも経験があるはず。
つまりそれは記憶したことの「明確さ」や「実感」を求めていないから、意識的に記憶を留めているわけではなく、無意識にインプットされている。
無意識に情報を入れるには、感覚器からの多角的な情報が効率が良いから、目で見て、ひたすら音読等が効果が大きいが、その意味や理由や効果の実感がわからないから、やらない人が多いだろう。自分もそうだった。
これは、学生時代に気が付きたかったことだ。
こういった人間構造の原理に気が付けた人や、勘(無意識)で使いこなした人は才能があるし、頭が良くてうらやましいナァ・・・
zzz・・・。