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日頃思うこと、気がついたことを綴る場所です。
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最近の合気関係の書籍やビデオは、合気が流行ってからもう10数年経つこともあってか、だんだん的を得てきてるな~と感じる。
そのころに始めた人がいろんなインスピレーションを経て、現段階での自分の流派の宣伝として技術暴露を少しずつやっているんだろう。

今、勉強する人は一番得かもしれない。
それほど、探せば情報がごろごろ転がっている。
自分が苦労して気が付いたことがしれっとビデオや書籍で書かれていると・・・ちょっとくるものがある。
もちろんその解説のほとんどはうわべの「どうやればできるか」がほとんどだったり、「これが原理だ」として、いくつも紹介していたりするが・・・。
それでも総合して「根本原理」を捉えようとすると相当なところまで理解できると思う。ただし総合するにはそれなりにお金はかかるけどね。

根本の概念がわかれば、場当たり的なコツはいくらでも作れるし、とりあえず原理もいくつでも作れる。それは考え方、捉え方次第。

以前、自分が書いたような「理」まで解説している人は商業ベースではやはりまだいない。
原理に近づけば近づくほど、人智から遠ざかるものだから、大勢に理解がされなくなるのは当然。氷山の一角の「わかりやすい」部分でしか商売にならなくなる。
「理」を解説できたとしても理解できるかは相手の認識レベルによるし、相手が「どうやればできるか」だけを求めている場合は、理解すらされないだろうし。
人に言われてできる・・・ではなく、自分で開発するには「理」の追求は必須だと思うけどなあ。

大事なのは根本概念を掴まえられる位置にいかに自分を持っていくか。
そして、いかにそれを維持するか。
要は、その維持のためには社会へ適合しないこともザラにあるから簡単ではないということですよ。そんなに甘くない。(本当に山へ籠りたくなることがある。)
また理解できればできるなんて簡単なものじゃないから。

マニアックな世界とはいえ、総体的には面白くなってはきたかな。
正直、あんまりメジャーにならないことを祈ってる。
なるはずがないから安心だけど。。。

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これはあくまで傾向をまとめたもので、万人向けの理論ではない。

大東流の佐川氏の高弟の木村達雄氏は著書「合気修得への道」でこう書かれている。
※一部合気ニュースの記事を抜粋追加。

日曜日、朝8時頃だったと思います、ベットの中で、佐川先生に軽くおさえられてもびくともしないのはなぜかとか、力は何も感じない合気のことを考えてるうちに、なんか外からコツンってアイデアが来たんです。
しかもコツンと当たった感触まであるのです。それが結局、今思うと合気の種だったのですね。
今からみたらずーつとレベルが低くて幼稚ではあるけれども、合気の世界へようやく移れたんです。
それは内からひらめいたのではなく、完全に外から来たのです。


コツンと来るのは明らかに外からであるが、それは自分一人だけで起こしている現象ということからすると、内部情報になり、つまり、内部情報であっても外部から来るものと捉えているという人間の傾向がここでわかる。
それは内部だけを見ていても、外部だけを見ていても気が付くことはない。

金縛りの現象の様に、人間は外界に起きている現象が外界からの自分に入ってきているかのように五感を通して感じているが、実は全て自己内部で作り出している情報(ストーリー)を捉えて外界を構築している。

合気上げのようなことをやっても同じで、相手から押さえられても、本当の外界の現象で何が起きているかは人間は直接認知できない。
故に、五感(時に六感?)を通じて思考、感情、想像力を持って、今何が起きているかを自己内部で推測した情報を自ら捉えて対処している。

いわば、相手との間には1枚の鏡が置かれているのと同じなのだ。
結局、見ている外界は自分自身の感覚から来る想像図(鏡に映った自分自身)に過ぎない。

その感覚が外界を推測する手助けをして、自己の身を守るために機能するから、外界の推測が成されれば、危険であれば、安全のための対処に身体を機能させる。
つまり、外界はわからないものであるから、外界を認知し、自分との関係を認知すれば、外界にはそもそも危険が潜むものであるため、自己内部の想像図を脳が見ることで、身体には自己を守るための物理的ブレーキが常にある程度掛かってしまうことになる。
また一度経験したことには、付箋を貼るかのごとく、そこまでたどり着くための想像図を勝手に構築してしまう癖を持っている人が多い。

合気上げで相手から押さえられた腕が上げられないのは、外界の想像図を作ってしまうことで、自分が攻め込まれているという状況に対処する以前に身体が既に行動にブレーキを掛けているからであり、自分で自分を動けないようにし、腕を重くしてしまっている。
心理学ではミラーリングと呼ばれる現象が身体の物理に及ぼす影響がこれである。
自分の所属する会ではこれを「自重崩壊」と呼んでいる。
そして、恐ろしいことにほとんどの人はこういうリミッターのかかった力しか使えていないのが現状だ。それを当たり前にして、相手とのぶつかり合いをわざわざしていることになる。それで人間社会の力の常識が作られている。
合気がヤラセだという話はよく聞くが、わかってくれば、普通の力比べの方がわざわざ相手に合わせてぶつかり合っているヤラセに過ぎないという見方に変わる。

これは合気ではなく、透明な力でもないが、その両方を繋ぐ実効的な理であり、各々が実体験から培うものであり、体験なく万人に理解される・・・つまり理論ではない。

少年ジャンプに掲載されている「黒子のバスケ」で再度ゾーンに入るにはどうしたらいいと主人公の一人が悩むシーンが最近描かれたが、スポーツでいうゾーンのようないわゆるリミッター解除状態を引き起こすものが正にこれであり、2度目にはその状態に入りにくい理もこれで分かる。
ビギナーズラックの理もこれとほぼ一緒。

現在の教育はこの想像図をより濃くする方法を誘導するようなやり方に偏重していると思う。・・・というか、今の社会がそれを求めている構造になっている。
少なくとも自分の頃はそうだったから、これを外すのには苦労したし、今でも苦労している。
言い換えると、身体を使った命のやり取りを避ける方向に偏っている。
頭を使うことで物事が進む現代だから、身体は軽んじられるが、頭も体の一部である以上、頭という身体の一部分のみを偏重して使っていてはダメで、身体全体を適度にバランスをとって鍛えないとならない。

なお、この想像図をキャンセルする方法は自分で探してね。それがわかればゾーンに入るのは簡単。ただしスポーツで使うにはそれ専用に特化した身体がないと不可。
どうすればそういう身体が造れるのかも自分で考えてね。

以上、必要としている人にはとんでもない情報暴露だと思うけど・・・
世界の裏側へ入るための入口かもしれない。
そしてこれには、さらに続きというか、裏がある・・・。

またこの理の信憑性は各自自分の人生で検証してね。
ちなみに武道家の日野晃先生が同じことを言葉を(難しく)変えて掘り下げて研究していらっしゃる記事がありました。
http://www.hino-budo.com/shintai/keiko-1.html
この記事内の「センス」という言葉が身体を使う上でのゾーン化の割合を意味し、
「幻」という言葉が感覚でとらえている想像図を意味します。
日野先生は表現者としてという観点で書かれていて、確かにこれが身体を使う芸術に非常に関連があることがわかります・・・というか学ぶことが多いです。
これに関してはボードでも自分に身に覚えがあるのでいつか書くかも。。。
日野先生の言葉も意味のわからない人には全くわからないような、ある意味辛辣な表現をされています。
1つ重大なヒントを出すと、
日野先生の「意識が途切れている」というのは、この技術から見たら、「ゾーン化」の意識状態が途切れている・・・と解釈しないと何も意味が取れないでしょう。それでも理解は難しいかも。。。


そういえば・・・2~3週前のジャンプを読み返したとき、読みきりでなんか合気を題材にした漫画が載ってた。あんま面白くなかったけど。

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金縛りの原理に気が付いた。

これで、るろ剣の鵜堂刃衛の使った・・・いや、違った・・・

松山主水が使えたと言われる「心の一方」がわかった。

しかも、確かに寝ているときの「金縛り」と原理面で共通している。

最近、2chの合気関係のスレで、「わかった」って人がいたみたいで、

自分も、そういや合気と関係ありそうだとは思ってたけど、あんまり考えてなかったな~と思って、考え始めたら、すぐに気が付いた。

でもわかっただけで、これを使うのは、なかなか難しいなあ。
(狙って使うのは、ちょっと・・・人格的にヤバい)

あと、原理がわかっただけで、これを連続して、拡大して相手に掛け続ける研究をしないと、使い物にはならないナ。

実生活では皆経験してる、簡単に起きることなんだけど、

それが、「それ」と気が付いていないことと、無意識処理されているから、

わからないだけだ。


ただ、合気を掛けるときは、ほぼ必ずその条件に当てはまる。

そこらへんが、相手の意識の隙間に入るような感覚の原因かもしれない。

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思い切って、書いてみようと思う。
これはmixiの方でもまだ書いていないこと。

この技術から得られることと、自分の体験から得られることを元に立てた仮説。


まず、人間の五感では感得できない情報は実はたくさんあるということ。
たとえば既に利用されている電波の存在を考えればわかるように。

次に自分の体験の傾向から思うことは、いわゆる印象の悪い夢を見た後には、風邪を引く等の体調不良等の傾向があること。精神的なストレスから悪夢を見たとしてもそのストレスは身体に良くないということ。
 

ここから1つ思うのは、人体に五感で感知できない外部(一部内部)からの影響があったときの人間の対処の仕方にある特徴があるのではないかということだ。


感知できない情報は当然のごとく人間が理解できるような形がない。
では形の無い実感できないものを捉える必要が生じたときにどうするのか。

もし体内に有害な電磁波や病原菌が入り込むことがあっても、人体はそれを物理的に防御、回避する能力を持たない。(あ、免疫は別ね。)
ではどうするのか。
 
おそらく、人間が見る幻覚の類はそれが原因ではないかと思う。
形がないが、それを避けなければならない時、その場(状態)から遠くへ身を離すように自分の意識へ警告を発する。恐怖の感情を想起させて。

よく、幽霊と磁場の関係性は論じられるところではあるが、磁場の強いところでそういったものを見る傾向があるのは、こういったことに原因の1つがあるのではないだろうか。強い磁場は人体に有害なことを身体は知っていて、感覚として認知できない意識にそれを幻覚として実感させている。

麻薬を使った時は白昼でも強い有害情報として身体が意識に幻覚を見せるんだろうけども、通常、夢でしか悪夢を見ないのは、顕在意識が強いときには、そんなわずかな情報は無視されてしまうのだろう。実際、幻覚は目か耳で感じることが多いだろうから、目は昼間は害のない光の情報で満たされているから分かりにくいし、耳で聞きたい音だけを聞くことができることからもわずかな、いらない情報は意識は無視ができることがわかる。

免疫は既に体内に入ってしまったものに対して、症状が出てしまった後の後手の反応として起こる。しかし、幻覚の反応はそれ以前の早い段階・・・つまり害する物質等が身体に入るか入らないか、影響があるかないかの段階の防御線として機能しているのではないだろうか。
だから、そもそもその情報は薄く、キャッチしずらい。

ということを考えると、さらにこういったことも推測される。
日本でも西洋でも同じであるが、中世以前には、いわゆるお化け、妖怪、魔物の類がまるで現実にいたかのようにいろんな話が語り継がれているが、過去、地球規模で病原菌が流行ったり、磁場が極めて強い時期や、最近言われるような宇宙からの太陽風のような影響が強い時代では、多くの人間が白昼でもそういった幻覚を見て、それらの情報を共有していたのではないだろうか。
だから、精神性を補強、補完するための宗教が必要であった。
そして、そういう影響が強い時代では電子機器は役に立たず発展の仕様がなかった。
だから現代のような電子機器偏重の文化にはならず、地球から得られるもので生活をしていた。
 
実は、こういう考え方に至った分析の視点からすると、もっといろんなことがわかっているのだけれど、
(たとえば、じゃあ霊の憑依現象はどうかとか。)
それはいろんな事情でまだ書けない。。。そのうち・・・

まあ、個人としては、こういうことではなく、現実に物体に近い別世界の存在があって、それを人間がたまたま見てしまうという方が夢があって面白いのだが・・・。

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タイトル:居心地の悪いところに身を置き続ける意義は・・・。

震災で皆、無力感を感じていたとよく聞く。
放射能の事実がわかるまでは自分の職場でもそういう話はよく聞いた。
「すぐにでも助けに、手伝いに行きたい」

自分はなぜ?っと思っていたが、
どうやら、「無力感」に理由があるのかもしれない。

合気をやっていると、自然に生まれる力に対して、
人が人なる意思をもっての人為が何の役にも立たないことが常に理解されていて、その「無力感」と隣りあわせで常に自分を見つめているため、特別、というか今更自然の威力に対して「無力感」は抱く事がない。

というか、逆に常に抱き続けている感覚だからかもしれない。
大きな物理的エネルギーを。。。

ほとんどの人はその「無力感」を短絡的に「自分の力」を実感することで解消しようとしたのだろう。

本来は常に、嫌でもそれに向き合い続けなければいけないことの1つだと思う。
実感の少ない「遊び」の部分、極点でない中間位置に身を置き続けることはとても精神力が要る。

誰でも自己の内面を省みれば、「無力感」は感じるはずなのだから・・・。

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