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日頃思うこと、気がついたことを綴る場所です。
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霊というものは、「ありもするし、ないものでもある」であり、霊はそういうものだと捉えて、解釈が揺らぎ続けるものであると感じている。まるで般若心経の「空」の様だが。

例えば、10人の中に1人だけ空気の読めないやつがいたとする。そいつは、ある意味他のやつには社会的に意味合いのある空気という情報存在を感じることができない人間ということになる。
10人のうち9人が物理的な霊が見えて共通認識していても、盲人がいて見えなければ、共通認識は成立せず存在はあいまいなものになる。

物体の存在というもの自体、密度の濃い薄いによって、認識が左右されるものであり、絶対的な存在認識をすることはできない。
人間は基本、五感または第六感でもよいが、認識できるものを「存在」と認定している。
例えば人体から発する赤外線を物体のごとく見て捉えられる生物が人間を見たら人間の身体の範囲というのは人間同士が認識するよりも大きい範囲に及んでいるはずで、そういう世界観も見えてしまえばあり得るということになる。

だから、個々人の脳内に映れば存在すると言えるし、それは現実にはないかもしれないが、証明する方法はなく、万物は「存在するがしない」のが解釈であると思う。
所詮、人間が捉えている自己の内部も外部も、情報から作り出した脳の想像図に過ぎない。

ただし、個別の認識や共通認識に意味がないわけでなく、それは当然、有効に利用できる。
社会のルールや、言語、身体と心が別モノだという認識が通用するから、こういった説明ができる。
〇気の一部はそういう認識によって成立もするが、それは共通認識できる者同士の間での感応である。
誰にでも通用するのは、そういった精神〇気ではなく、物理〇気の方である。身体の物理は生体を維持するために管理せねばならず、そこには自己認識が生まれ出ずる。そこに生物を相手とした〇気が掛かり得る正に手掛かりがある。そして物理〇気がかかれば自然と精神〇気に及ぶ。

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自分は子供の頃、靴飛ばしが得意だった。
ブランコが下がったところから上がっていくまでの間にGが最大になる位置がある。
そこで身体が外に飛ばされそうになる。
その高まった力にタイミングを合わせて脱ぎかけた靴を足を振って飛ばすと、靴に付随した一時的なエネルギーが靴を遠くへ飛ばす。
あのタイミングが一致した感覚がたまらなく楽しかった。
まるで自分が地球で、靴は地球でスイングバイで勢いを増して地球から宇宙へ飛び立っていく宇宙船のようだった。
〇明な力の正体と意識
質量には地球上で1Gというエネルギーが自動的に与えられている。1Gを越すと筋肉の断裂でそのエネルギー(重心)が実感される。それは体の中でも外でも同じ。ただし1Gを越えないと中でも外でも「あるのかないのか」さっぱりわからなくなっている。
(外にあっても認識できないから存在しないと多くの人が決めてしまっている)
加速することで、Gを高められるが、高めるほどGは身体から離れる。そして物体はGの位置に向かおうと(軸を戻そうと)する。
身体から離れると、それは空間重心となり、そこに引っ張られて翻弄されるから、人間はそれが危険で嫌だから、体内に置いて管理しようとする。1G以上を体内に無理に留めようとすると、力んでしまう。本来はこの力は体内であろうと体外であろうと関係なく自由に素通りするものだ。そして物体の質量に付随し、位置は分離するが、それが別の物体に働きとして作用するには、重心位置ではなく、あくまで物体本体への接触を必要とする。つまりエネルギーの働く1Gを越える空間の仮想重心をあたかも「本当に力が発生している位置」として人間は便宜的に存在を作り出してそれを捉えることができているということになる。
それに実体はなく、実効的な力もそこにはなく、本来は物体にある。だから物体にしか実体がないと常識的な情報整理をしている人もいれば、そのエネルギー重心に力が発生していて影響されていると捉える人もいる。しかしいずれにせよ、人間の無意識はその重心が中であれ外であれ存在し、影響を受けていることを知っていて、1Gを越えると筋反射を起こす。 この筋の動きが感覚を呼び起こし意識を発生させている。よって意識は重心の近くに発生する。

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その1。思うこと。
最近思う。自分は自分をどこまで知れるんだろうか・・・と。
外を知ることに比べれば意味合いとしては大したことじゃない。
しかし、とても困難である。
潜在意識を知る手立てを得ても、なお困難を極めるこの作業に終わりがあるのだろうか。
前に進みながら、後ろへ戻っている気分だ。
〇気に関することは、そのほとんどが知覚情報として知らないが、身体や無意識は知っていることなのだ。
特に3歳以前のそれは膨大であり、そして極めて重要である。

その2。見えるもの。
意識は重心を招き、重心は意識の位置となっており、そしてそれは他人から無意識に推定できてしまう。
そう、人は他人の意識の位置が読めるのだ。
これはある一定以上、自分の力を抜くことができるようになった人間は皆気が付くことである。
そしてその意識同士の応対が世の中の表の世界の正しいことになっており、意識には意識をもって対応するが故、ぶつかり合いが生まれてしまうことにも気が付く。
そのぶつかり合いが実感として楽しい、社会的に正しいものは真っ当と認められて良いこととなっているが、楽しくない、社会的に間違っているものは「悪」とされている。
客観的に視れば、ただのそういう事実でしかないが、それに人間はアイデンティティーや感情を載せている。

その3。見えないもの。
ある人が無意識でやっていることは他人は真似(理解)ができないようになっている。
それは技術的にも真似できないし、興味が湧かないようにできているのだ。
もしほぼ完全に真似ができたとしても、その瞬間は自身やっていることを意識できないようになっている。
つまりできたとしても全く「旨味」を感じないようにできているのだ。
だから他人に説明はできないし、説明する気にならない。
無意識にやっていることだから、そもそも価値など感じないのだ。
意識的にやることはとても「美味しくて」仕方ないのに。。。

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さてこれまでは、右脳と左脳の特徴より主に脳の意識の仕組みに関する〇気について触れてきたが、最後にちょっと具体的な身体面の〇気についてまとめてみたい。
なおこれまでと同じように前提となる必要な知識については読者自身で補完して下さい。
というか、それがないとおそらく理解できない点が多いと思われる。
「何を言っているのか!?」となっても置いていきますので、よろしくね。

身体面に関する〇気は「浮き」のところでも触れているが、今回は実用的な〇明な力に関する、力のあり方について。
これがわかると、なぜ〇気では「自分の力を抜く」ことがうるさく言われているのかがわかると思う。
そして、習っていても簡単に言葉にはしてもらえない重大なコツがわかってしまうかも・・・しれない。
 
人は圧力の大小を感じて、それが均一になる位置が、対象物のどの部分の振れ(動き)が止まった時にそうなるかで、自分に掛かる外の力の重心位置を特定している。
手の平の上で棒を立てるバランス遊びをやってみるとわかるが、視覚が自然と振れを止めるべき推定重心を捉えている。
人間が相手であれば相手の力を推し量るにあたり、加えられた圧力変化から相手の推定重心を捉えて、そこを力の出のポイントとして自分の質量の力を当てて、抵抗等の対処をしている。
これが無意識に行われている。
 (体内で重心を特定の位置に作ろうと意識することで、1G以上の負荷がかかり筋肉が断裂してしまう。これが筋肉痛となる。)
だから最初から均一(1G順応)であったり、重心が見えるところから外されている相手から力を掛けられてもそれを感知できない。
 
なぜ〇顔の手と言われるのかはこの点を骨の構造面から深く考慮すれば分かることで、力をまとめることの難しさが分かると、なぜ故S川総範が座取りを基本にしたかの意味も分かってくるはずである。
そして、意味がわかって身体の使い方を変えると、不思議な程、途端に力の質が変わってしまい、ぶつからなくなる。 
それまでなんとなくやっていた、身体の力を抜いた方が上手くできるとか、意識をこうやって操作すると上手くいくといった法則があるのかないのか明確でないような・・・そういったなんとなくの感じではなく、はっきりと変わってしまう。
相手の力はこちらに届かなくなって、相手の力を使えなくしてしまうことができる。

ともかく重要な点は意識で「見えないところに外した重心」を直接操作できるわけではないから、特に腕や肩に関しては意識は使ってはならないということ。
もしも意識を一瞬でも通常通りの見えるところ・・・たとえば筋肉等に焦点を持ってきてしまえば、途端に通常の力になって相手とぶつかってしまう。
コツとしては、(意味がわかるならば)物理法則に結果を任せて、それを一切意識しないことだ。
また力を外せないところは、一体どこに重心を置くのが良いかを研究して、それに合わせた身体を作っていかなければならない。
(そして、仮に「外す」ということについて追求するのであれば、「どこから外すのかという本質」を探っていかねばならない)
 
さて、ではこの力をどうすればまとまられるのか、手首に集められるのかはご自身でお考えください。
これを発展させると、相手のそれを利用したり、自分のそれを増幅させたりすることができる可能性が出てくる。
そして棒や剣を使った場合に、どうすれば道具を介しても同じことができるのかがわかるはずである。

〇明な力のネーミングについて
〇村氏の著書には「澄んだ〇明な感じがする力」と書かれていたから、そういう意味で「〇明」だと思われている節があるが、それは故〇川総範が名付けたその力を受けてから「確かに〇明な感じがする」と主観的に感じ取ったもので、ある意味勝手な解釈であり、故〇川総範が自分で名付けたことを前提とすると、それを受けた相手の主観の感想から名付けたとはとても思えない。
つまり、名付けた故〇川総範の主観で「〇明」だと感じ得る何がしかの特徴があるから、「〇明な力」であって、その力を受けた側が感じる「澄んだ〇明な感じがする力だから」ではないと推測する。
その意味では少なくとも「〇明な力」には2重の意味(解釈)がある。
当然、私は後者の意味で「〇明」であると確信しているが、「〇明な力」は故〇川総範の検閲を受けて、〇村氏が著したものであり、そこにカモフラージュとして2重の意味を持たせた可能性はある・・・と邪推する。

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自分が〇気を学んで得たこと

よく「他人を変えることはできない」という人がいる。
経験上、いろいろあったことはわかるが、アプローチが違ったということだろう。
自分は他人は変えられると断言できる。なぜか。

他人を変えるには、自分がまず相手を理解し認められるように変わらなければならない。
そして、自分が変われたとき、相手は自分を味方として感じてくれるようになる。
すると相手との良い関係性が出来上がり、今度は相手が自分を必要とするから、
自分の変化に相手が合わせてくれるようになる。
そして結果として相手は変わる。
そこに無理なぶつかり合いは何もない。

つまり、他人を変えられないのは、自分が変われないからで、
狭量な器で狭い視野でしか相手や世界を捉えられていないということになる。
簡単に言い換えると
「これ以上は譲れない」とか「これ以上は自分が変わる必要はない」と思ってしまうことだ。
このような相手を変える方法論を言葉にすると一義的には、
人を騙して変えてしまうような仕組みに聞こえるが、
見えない形で人間関係というのはこういう仕組みになっていて、
人間の成長というのは、自分を変えられないと起こらないものである。
そして騙す思いを持っていたら、そもそも自分を変えるには至らない。

これは身体を通じて行う〇気も全く一緒。
押さえてくる相手を変えようとぶつかったって相手は変わらない。
しかし、相手の力に意識的な抵抗、反射的な抵抗をしないようにして、
相手の力を身体を通してしまうと、相手の無意識はこちらを敵とみなさなくなってしまう。
行き場を失った相手の力は相手にそのまま返り、相手は浮いてしまう。
すると、こちらの動きに相手の無意識がしたがってしまうようになる。
そこに無理なぶつかり合いは何もない。
そして相手を自分の意のままにしてしまおうという思いを持っていたら、
そもそも自分の身体をそこまでコントロールできない。

社会生活をしていて、何がしかの物事に抵抗感を感じた場合、それは全て成長のチャンスとなる。
そこで自分が絶対的に正しいとして抵抗して、言い訳してしまうだけにとどまるか、
それともこういった構造に気が付けるか。

こういうことはわかっている人ほど、他人には話さない。
そして自分も、この先これ以上のことがわかったとしても、もう書くこともないだろう。

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